前回は理論的な見解を記したが、今回は具体的な、つまり日本における現代のうつについて考察したいと思う。


草食系男子
アラサー(アラフォー)
だめんず
キャリアウーマン
婚活(離活)


言葉というのは面白いもので、特に日本語は実に豊富な語彙を持つ。常に変化をする言語においても、表層の変化の激しさにはついていけない人も多い。
それは平準化された世界からの拒絶でもあり、それによって薄っぺらのアイデンティティを形成しているのも確かである。
それだけ“意味”に枯渇しながらも、それを苦労して満たさずとも安易な道が用意されているので“深さ”に触れることなく成長していけるこれまた一種の“表層”社会が日本だ。


昨今の若年層におけるうつの特徴は、「未熟性格」と呼ばれるものが多いそうだ。
これは平井孝男氏の『うつ病の治療とポイント』によると「自己中心でわがまま、自主性に乏しく依存的、欲求不満や自分の思うようにならないことに対する耐性が低い」傾向のものを差すようだ。
境界例というものと重なるところが大きく、いわゆる「自己中」がうつになるという非常にやっかいなケースだ。
そして平井氏が言うように、彼らは「悩む能力に乏しく、自分で悩む代わりに周囲を悩ませる」ので難治性うつ病の代表格であると言われている。

要するに“共同生活の中で生きている”という公共性を認識出来ないということで、それをもたらした要因はわかりやすいところでは、家族関係、とりわけ幼児期の体験がそのことを育ませなかったことであり、もう少し大きな枠組みでは、社会であり、核家族化の進行と高度経済による終身雇用の夢、一億総中流の幻想であり、結果としての郊外化である。
(郊外化については宮台真司氏の『まぼろしの郊外』を是非参照していただきたい)

つまり、こういった今となっては古き良き時代の残滓を引きずり、現実とのミスマッチを親も教育も埋められないことに、不安の増殖が起こる。
しかしそれはおおよその日本人にとって同じ条件ではある。
そこでうつにならない人、なる人の違いはなんであろうか。

キーワードは“動機”である。

人は何かをするにも“動機”があるとされる。
その動機が自発、能動的なものなのか、曖昧で受動的なものなのかで大きく分かれる。
先に記したような社会の中で、自らの行動に対して確たる動機を持つのは難しい。
宗教アイデンティティがない日本はなおさらで、2ちゃんねるの異常なまでの影響力が、それを示している。

信じるもの、すがるもの、その背後にある社会的承認として宗教があるが、それがない日本にとって自らのアイデンティティを動機付けるものは非常に薄い。

大家族があった時代は、そこで共同性を認識する術は身に付けられたが、核家族化の後の郊外化で家は孤立し、その役割を学校が担うようになり、学校化が起こる。これも先の宮台氏の著書を参考されたい。

薄っぺらの社会、それが「未熟性格」のうつ病の元凶であると思う。

ゆえに何が大切なのか、教育なのだ。
これは教育論にもなるので、ここでは差し控えたい。

うつを生み出す要因が社会にあることは分かっていても、その社会がどのような構造によって生まれたかについての考察が理解されない限り、日本特有の「臭いものには蓋」で、表層を繕うことで終わってしまう。
そんなことではもし、自分の身近な存在が手におえないようなうつになったとき、対応できない。
これは裁判員制度についても同じだ。
記者クラブ制度によって、確かなジャーナリズムが機能しない中で、そんなテレビと新聞から洗脳情報を知識として享受しているようでは脱官僚化は望めない。
インターネットはその壁をすこしずつだが、破り始めている。

うつは社会構造が大きく変化しない限り、複雑になっていくであろう。
従来の“分かるうつ”から“分からないうつ”が徐々に増えていく。
その対応のいろはも確定しないというのに・・・