時は2009年1月1日
久しぶりに大晦日を家族と向かえた。
それは友人の環境の変化によるところが大きいが、その一事に限らず、昨年2008年は自分にとってとてつもなく重要な年になった。
2008年、6月8日、秋葉原での事件が全てを変えたと言っても過言ではない。
あの事件が提示した問題、そして課題は私自身の思考にも間接的ではあるが、大きな作用をもたらした。
私がロストジェネレーションと呼ばれる世代に属していることも恥ずかしながらこれを機会に知った。
現代社会がどうのような構造で、日本は、世界は、どのように関わっているのかという一見自明のようでまったく複雑系の中に覆い隠されているということを、この事件をきっかけに知ることになったのだ。
文学、哲学、民俗学、歴史、それらを自分の嗜好の中で消費していた私は大きな時代錯誤の中にいたのかもしれない。
今、自分が生きている世界、社会に自明性がなかったから虚無を払拭できないでいたにも関わらず、半ばあきらめ気味に、自分の殻に閉じこもろうとしていた。
それはそれで、違う道を歩んだかもしれないが、決して満足のいく結果は得られなかったに違いない。自己嫌悪の嵐が襲ったことだろう。
あの事件は、その思考に“まった”をかけたことは事実だ。
そして社会学に出会い、虚無は解けた。
なぜここに至らなかったのか、それは詮索しても意味がない。
それから半年、その間の読書量は過去最高だ。
偉そうなことを言う割に読書量は少なかったが、この半年は充実した質と量の読書ができたように感じる。
点が線になった。
そしてこの世界にはとてつもなく大きな課題が山積していることを、別の視点で認識した。
資本主義、社会、経済、金融、精神分析、これらのキーワードが現代を解く鍵となろう。
つまり、文学、哲学、歴史などは直接的には大した意味をなさない。
これには語弊があるかもしれない。
要は、それだけではダメだ、ということだ。
それだけを唱えるものはロマンチシズムに浸っているだけで、社会的に有害にすらなりつつある。
複雑系の諸分野の関係性が認識されて初めて脱構築が可能となる。
これはとてつもなく難しい。
悲観的には、行きつくところまで行かないと社会は変化しない、というものだが、そう思う人が増えることによって、それは変化する。
であるので私自信がそこまで悲観的ではない。悲観的になろうとももう“虚無”はやってこない。虚無は社会の構造が、点が線にならずに解けなかったからだ。
もはや私の実存の問題は虚無ではなく、具体性を帯びた。
それを実際の行動に移す、そんな段階だ。
2009年は少しでも前に進めばよいと思う。
複雑系の中では、それでもやり続けることが意味を持ってくる。
結果的に何もならないかもしれない。
こう書くと、勘違いの偽善者と思われるかもしれない。
ここで間違ってはいけないことは、私自身は楽しいと思うことを一義に考えているということだ。誰かのため、という思いはそれすらも複雑系の中で偽善の烙印を押される。
これも偽善と呼ばれたくない、ということではなく、そういった次元で行動しないということである。その思考に自信が持てるだけの“屁理屈”が実存に結びつくとそれが可能になるのだ。
さて、新年早々長々となったが、地道に楽しく生きてやる!ということです。
創作、
やはり私の表現はここにあると思う。
作品を、今年こそ、満足のいく作品を創りたい。