自分探し、
これは誰もが一度は意識することだと思う。

しかし解決に至らずに、つまりは不透明なまま風化していってはいないだろうか?

風化できるということは、それが生きることと(厳密には生きていられること)は乖離してしまっていることを意味する。

それが生産から消費へ、豊かな時代、即ち、『成熟社会』

1970年がその過渡期であったと言われる。


これ以降、脆弱なアイデンティティを支えていた共同体システムが幻想となり、自分の存在が風化しても、新たな存在を少数の共同体で維持されれば形を変えて再生産できることを知り、それを無意識にも実行できるものは複雑系に対応し、できないものはうつ病になったり、脱社会化することになる。


自分が社会の中で不透明であっても、このようなバーチャル空間、つまりネット社会が携帯を通して(ほぼ全ての国民が)リアル化したことは、それほど問題視しなくてよいようにもなった。


しかし、これは大変な落とし穴があろう。

ネット社会のリテラシーが浸透されなければ、より不透明にならざるをえない。

不透明なままでいられる人は問題ないが、透明を求める人には絶望的だ。


自分の存在理由を求めたい人は、ネット空間に依存してはいけない。

自分探しは、自分の足で確かめるのだ。