これは質問者様の独断に近い「憧憬」とも呼びうる数学観に質問者様ご自身が縛られている可能性があると考えられます。


 「解は一つしかない。それも真か偽かで識別される」。この「識別される」との行為および言辞を哲学をはじめ社会科学などでは「認識論」と呼びます。
 「1+1=2」と「1×1=1」の違いを説明する時、質問者様はどの様な説明をしますか?。共に「1という値が変化する」ことを意味しながら、等号の右側にある値が両者の間で「なぜ異なるのか」との質問を生徒や学童から受けた時にどの様な説明をしますか?、否、できますか?。
 問題の本質は「値をどの様に『認識するか』の問題」です。『解の正当性』に意味があるのではありません。哲学からみれば数学はあくまでも方法論の一つでしかありません。しかもそこで重視されるのは「答に至る過程」であって「過程」に誤りがあれば答えも必然的に異なってきます。そしてここからが重要。問題は「なぜ間違ったのか」を証明すること。それによって別にある「正しい?答え」の正当性が裏付けられることになる。つまり両者の間には「明確な相対性」が認められることとなります。この過程は歴史学のそれと酷似している。歴史学は証拠に基づいて歴史像を炙り出す。経済学は様々な指標に基づいてある事象の正当性を立証する。こうしたスタイルは「近代科学に共有される財産」でもある。何も数学のみの特権的な存在ではありません。
 E=mc²に象徴されるエネルギーの生成と消失そして「無から質量が生まれる」との対生成を表す関係式を目にした時、それが数式として成り立っているかとの問題よりも「それが持つ意味」を問うことの方が「この数式」を理解することになる。おそらく世間で言う俗流「数学者」は「あぁ、何と美しい数式なのだろう」と感嘆するだけで、底に示された悪魔のメッセージなどは知るよしもないだろう。それほどに気の毒な人達であるともいえよう。
 小学校から中学そして高校に至る教育課程のなかで「頭の良さ」を示す指標が増えていくとお考えになっても、それは「知識量が増えただけ」であって哲学で呼ぶところの「知を楽しむ」ことにはつながっていない。従って彼らは「無知の知」という言葉自体を知ることもない。彼らにとって「頭が良い」ことは「情報量やデータ量の多さ」と同義です。そしてその知識をどの様に組み合わせるかによって「知識の持つ意味」が初めて具体的な姿形を表すことも理解できていなす。まさに「思考停止」工場の「産業用ロボット」と同じで「信じて疑わない」。これでは学ぶ意味すらも理解出来ないはずです。
 実際に僕は毎年、抜き打ち試験の形で文章を書かせます。「学びについて」です。テーマは何でも良い。但しこの問題には幾つかの仕掛けがあります。
 (1)自分の言葉で書け。
 (2)抽象的な課題に自らが具体性を与えねば書くことができない。
 (3)論理的に合理的であること。感性を対象とする領域ならばその根拠を説明すること。
入学試験の厳しい競争を経て大学の門をくぐり抜けてきた10代後半の若者達にとっては何でもないはずの簡単な問題に十分な答えを示すことが出来ない学生が実に多い。これが現実です。答は一つしかないと「思い込んでいる」あるいは「その様に憶えろと詰め込まれてきた」との点で彼らも実際には被害者でもある。だから「この程度でも書くことが適わない」。その後も事ある毎に僕はそうした彼らの欠点を彼ら自身に気付かれる工夫をします。ゼミの発表でも当然のように「議論」か前提となりますから、彼らがその場で固まったり炎上したりすることも日常茶飯事です。その場で答える事が出来るように「準備」してくるのが自然ですが、答を欲しがるだけではその答を手に入れる事はできない。ですから助け船など出す気はさらさらないが、再チャレンジのためのチャンスだけは平等に与えます、自分で調べ自分の言葉で表現せよと。そのためには文献調査などの基本の基本からもレクチャーしますそ。の事に気付いて欲しいとの大学教育に携わる者としての務めです。
 「1+1」と「1×1」に共通する「1」の意味を質問者様はどの様に「説明する事」ができますか?。これがご自身でお立てになった質問に対する反証でもあります。

 

数学と他の学問の違いは何でしょうか。
私は証明が出来るかどうかだと思います。つまり必ず答えが存在するのです。
そこは他の学問と比較し、突出しているのです。では、証明が出来ると何が良いのかと言えば、誤魔化しが効かないのです。なので、純粋に思考力が試されます。

 この部分は僕と少しばかり理解が異なります。質問者様はご存じないかもしれませんが、たとえば「鎌倉幕府の成立」をどう解釈するかの問題では、主要な見解だけでも三つがあります。一般的な理解(数学的発想)の仕方からすれば「答は一つしかない」ことになりますが、「なぜ『三つの認識(もしくは答え)』」が存することとなるのか、との問いが歴史学や社会科学・自然科学を含めての「科学的認識」には求められます。もし一つの問題に対する解が一つだけであり、それが絶対的な正答であったならば「認識」もそれ以上には深化しないことになります。
 哲学でも社会科学でも何らかの答はありますが、それぞれの説明に基づく結論であって「解釈すること」と同じです。つまりは方法論の形であり、検証する形には幾つもの方法がありうるとの話です。ですから数学的発想「も」その内の一つに含まれる形となります。但し少なくともそれは「検証を得る必要がある」事だけは真理であって、もし検証がなければそれは信仰と同様の観念論あるいは不可知論レベルの認識に等しい。
 ルネサンス以前の天体観とルネサンス以後ではそれこそコペルニクス的転回を遂げる。数学教育にあっても「1+1=X」を教える時に「Xから1を引いた数」として教えることと「Xを構成する値がN+N」であることを教えるのでは意味が異なってきます。数学教育一つをとってもこの様に異なる事例があるわけですから、そこに「数学が他の学問に対して持つ優越性」などは謂われのない過信ともいえることになります。
 社会科学でも統計学の手法を緩用しますが、そこに示されたデータから何を読みとることが出来るかが問題であり、それはデータの信頼性に派生する問題でもある。一つの統計に対し、その数値を逆から読み解いたならばそこから何が見えてくるのか。「あと1時間しかない」と考えるか「1時間もある」とではそれこそ雲泥ほどの隔たりがあることにもなります。

>ところで、質問者さんは頭の良さをどう定義されますか?頭のいい人は何が共通していると思いますか?
よろしければ、お答えして頂くと助かります。

このお尋ねですが、現在の僕として「知らない事」を知らないと言い、その分野の専門家に意見を求めることに躊躇しない姿勢を持つ者、あるいは様々な方法論の存在を認める人としか言えません。ストラディバリウスを物理的に解析し説明したものの、それを物理的に再現できるとのお粗末な妄想を抱き再現しようとして失敗した「日本のロケット工学の生みの親」と呼ばれた人物がかつていたことを書き添えさせていただきます。