2018年6月21日

友人の実家の総合病院にて直腸癌が見つかる。

自宅に帰って次女も仕事を早退して慌てて実家に帰ってきた。
息子(長男)は仕事が休みだったが友人と遊びに出かけていたが長女からの連絡で慌てて自宅に帰ってきた。


私の家族は、5人家族。いや…二世帯住宅で夫の妹(52歳独身結婚歴なし)下の階に住んでいる為、6人家族になる。

長女は31歳。27歳で結婚したが結婚してから元婿のセックスレスで2年後に離婚。今実家に住んでる。次女26歳は今年5月に入籍。結婚式は来年3月。
3番目の長男息子24歳は、関西の大学を卒業し地元名古屋で就職。実家で一緒に暮らしいる。

大腸癌と告知され、自宅に帰ってきて頭の中は自分が今後どうなるのか?義母が亡くなって6年。義母が癌告知をされてからの義母の症状や亡くなるまで介護した事を頭の中で回想し、実家の母は、アルツハイマー型認知症で自宅近くの老人保健施設に入所して私が全て母の事をみている為、母の今後はどうするねか?色々なことが頭の中でぐるぐるしていた。

家族には、「大丈夫!なる様にしかならないから。ババちゃん(義母)は延命治療で苦しい思いをさせてしまったからママは延命は嫌だから。子供達も大人になったし、ママはこれからどうなるのかわからないけど好きな事だけする。我慢はしない!だけど癌の治療は自分で納得して出来る事はするから。心配しないで!それと絶対、親戚やママの事知っている周りの人に言わないで!癌になって可哀想なんて思われたくないから!」

そんな言葉を笑いながら夫や子供達に話をした記憶だけはある。

結婚して夫の両親・妹と二世帯住宅で同居。

義母はとても厳しく長男の嫁だからと盆正月は、自由に実家にも帰してもらえなかった結婚生活。

義母の介護も義妹は全て嫁任せ。

義父の介護は義妹は多少は一緒に手伝ってくれた。

義父が創業した会社に夫・義妹は勤め、夫は義父が倒れてから専務から社長に。

家庭や子育ては一切手伝ってくれた記憶がない。
息子曰く、父とキャッチボールした記憶は一回しかない。家に居る記憶も余りない。

子育てや介護に今迄費やした時間だったけど楽しかったなぁ…と。

3人の子供達は私立中学から大学まで出し、夫に感謝すると共に私の人生なんだった?なんて笑いが止まらないかった。

癌告知された2年前から、やっと娘達と行きたい国に旅行に行こう!と毎年小金を貯めながら台湾やハワイ旅行に行っていた頃だった。

今迄、義母や実家の母の介護で旅行も行けなかった。
足腰丈夫な時に違う文化を味わってみたかった。

今年、癌の予兆はあったが一月に長女とハワイ旅行。四月に一人で台湾旅行したばかりだった。

追い追い年何回も台湾に行くようになったキッカケも書いていきたい。何故なら第2の家族と言っても良いくらい犬が縁で仲良くなった家族が台湾にいる。私の病気が心配で私の手術の前に家族で日本に来ると飛行機のチケットを予約したと連絡があり長女が慌てて、ママが元気になったら台湾に必ずまた行くから!と説得し日本に来てくれる気持ちだけで充分だと。

またまた話が逸れてしまいブログを書くことに慣れていません。申し訳ないです。

21日夜。夫との会話で、子供達は自分の人生があるから自分の事は自分で全てしなくちゃいけないよ!と何度も何度も口説いくらいに話をした記憶があります。

夫は、何一つ自分で出来ない人。全て私任せだったから。

この夜。長女に保険の説明をした。
実家の母の保険や実家の母の洗濯物を取りに行く日や、毎月のホームの支払いや家計に関する事、全て話した。

あとあと、ノートに全て書いておくからと。

長女は、一日中泣きはらしていた。
それと同時に、息子と2人で今後は協力して色々助けあっていこうと話をしたそうだ。
息子は、幼い頃から母の私にとても優しく中学から見たことない息子の涙をこの日初めてみた。

私にとって、3人目でやっと跡取りを産んだので幾つになっても可愛くて仕方なかった。

大丈夫かな?我が家?私が居なくなったら、バラバラになるんじゃないかな?なんて心配もしていた。

この日の夜は、家族が寝てから1人で自分の部屋で泣きはらした。

子供達には涙は見せなく無かった。
泣きながらいつのまにか眠りについた記憶がある。

明日の、大病院に行くのも、逃げたいほど嫌だった。

この日から夫は自覚したのか、仕事の付き合いは全てキャンセルして風呂掃除や食事の洗い物や洗濯物のタタミなと何故かするようになった。


今日は、告知後の家族のことや、私の家族構成などプロフィールに致しました。

次回は、手術までのことを書いていきます。


PS
術後54日。もうすぐ2カ月になります。