何気にケーブルテレビをつけたら「さとられ」ってドラマの再放送がやっていた。
自分が考えていることが音声として周りに聞こえてしまう特殊な人間の話。
自分が考えていることが音声として周りに聞こえてしまう特殊な人間の話。
人が人でいれるのは自分が考えていることが周りに聞こえないからだと思う。
自分の思念の世界では原則自由が認められている。
どんなことを想像しても思うだけなら自由だ。
いろいろなことを考え自分を戒めることで、正常な自分を維持することができるのだと思う。
その中には弱い自分があり、卑怯な自分があり、自分勝手な自分があり。
純粋な自分があり、まじめな自分があり、頑張ろうとする自分がある。
そうやって内に秘めているいろいろな自分があるからこそ、人が人でいれるのだと思う。
自分の思念の世界では原則自由が認められている。
どんなことを想像しても思うだけなら自由だ。
いろいろなことを考え自分を戒めることで、正常な自分を維持することができるのだと思う。
その中には弱い自分があり、卑怯な自分があり、自分勝手な自分があり。
純粋な自分があり、まじめな自分があり、頑張ろうとする自分がある。
そうやって内に秘めているいろいろな自分があるからこそ、人が人でいれるのだと思う。
医療従事者というのはとかく全人的性格を求められる。
簡単にいうと完璧な人間性を求められる。
簡単にいうと完璧な人間性を求められる。
正直、それは不可能なことだと思う。
医療従事者である前に人であるからだ。
したいこと、したくないこと、しなくてはならないこと、気になっていること。
様々な感情の上に人は成り立っている。
それを理性や社会性というものでコントロールしながら生活しているのが人というものだ。
医療従事者であろうが、なかろうが、根本的に人間の思考回路は大きく変わらない。
それを状況に応じてどうコントロールし表現していくかが大事になる。
医療従事者だけが特別ということはありえない。
医療従事者である前に人であるからだ。
したいこと、したくないこと、しなくてはならないこと、気になっていること。
様々な感情の上に人は成り立っている。
それを理性や社会性というものでコントロールしながら生活しているのが人というものだ。
医療従事者であろうが、なかろうが、根本的に人間の思考回路は大きく変わらない。
それを状況に応じてどうコントロールし表現していくかが大事になる。
医療従事者だけが特別ということはありえない。
ただ、完全に全人格的人間を演じているわけではなく、基本的に人のために働くことが好きな人間が多いとは思う。
自分は心臓血管外科医という今の仕事を天職だと思っている。
人の命を救うために頑張ることに生きがいを感じる。
患者さんを救いたいと素直に思うし、また、そうできたときに達成感・満足感を得ている。
人のために働くことが自分のためにもなっている(最近は疑問に感じることもあるが・・・)。
人の命を救うために頑張ることに生きがいを感じる。
患者さんを救いたいと素直に思うし、また、そうできたときに達成感・満足感を得ている。
人のために働くことが自分のためにもなっている(最近は疑問に感じることもあるが・・・)。
でも、みながいつも患者さんのために働いていけるかといわれるとそうとは限らない。
それは医療従事者自身のもって生まれた人間性にもよるし、頑張り続けることに限界がないという事実にもよると思う。
それは医療従事者自身のもって生まれた人間性にもよるし、頑張り続けることに限界がないという事実にもよると思う。
医学というのは難しい。
本気で患者さんのことを思うといろんなことができる。
輸液の内容ひとつとってもそうだ。
本気で患者さんのことを思うといろんなことができる。
輸液の内容ひとつとってもそうだ。
カロリーは何カロリー必要か?
その組成は何がベストか?糖質は?タンパク質は?脂質は?ビタミンは?微量元素は?
抗生剤は必要か?だったらどんな種類の抗生剤が合うのか?何日間使用すればいいのか?
輸液量はどれくらい必要?500ml?1000ml?1500ml?2000ml?
電解質のバランスはとれているか?ナトリウムは何mEq必要?カリウムは何mEq必要?
その組成は何がベストか?糖質は?タンパク質は?脂質は?ビタミンは?微量元素は?
抗生剤は必要か?だったらどんな種類の抗生剤が合うのか?何日間使用すればいいのか?
輸液量はどれくらい必要?500ml?1000ml?1500ml?2000ml?
電解質のバランスはとれているか?ナトリウムは何mEq必要?カリウムは何mEq必要?
そんな風に考えることは山ほどある。
そして不思議なことにいろいろと考えて毎日輸液の内容を調整したからといって決していい結果が生まれるとは限らない。
そして不思議なことにいろいろと考えて毎日輸液の内容を調整したからといって決していい結果が生まれるとは限らない。
医学というのは過程も大事だが、それと同じくらい結果も重要視される。
どんなに頑張ったと自分自身で思っていても、結果が良くないとそれが患者さんや家族に受け入れてもらえないこともある(もちろん受け入れてもらえない家族を否定するつもりはないし、受け入れられないときはそれなりの理由が存在する)。
ただ、はっきりしているのは受け入れてもらえなかった時の医療従事者側の落胆は大きい。
どんなに頑張ったと自分自身で思っていても、結果が良くないとそれが患者さんや家族に受け入れてもらえないこともある(もちろん受け入れてもらえない家族を否定するつもりはないし、受け入れられないときはそれなりの理由が存在する)。
ただ、はっきりしているのは受け入れてもらえなかった時の医療従事者側の落胆は大きい。
人は相手の考えを想像することはできても、実際に音声として聞くことはできない。
見えるものがすべてであり、聞こえるものがすべてであるように感じる。
つまりどれだけ頑張ったと自身が思っても伝わらないこともあれば、逆のときでも感謝されるときもある。
それが現状。
そのためいろいろなことを考え、葛藤しながら職務を全うしている。
見えるものがすべてであり、聞こえるものがすべてであるように感じる。
つまりどれだけ頑張ったと自身が思っても伝わらないこともあれば、逆のときでも感謝されるときもある。
それが現状。
そのためいろいろなことを考え、葛藤しながら職務を全うしている。
もうひとつ問題なのは医療従事者の常識とそうでない人の常識に隔たりがあるということ。
人の全身状態を数値で評価する西洋医学の性質上、医療従事者は「死」というものを理性的。理論的にみることができる。
数値をみることである程度、「死」というものを予測できる。
そのため医学を知らない人が聞いたらびっくりするようなことを考えたり、話していたりしていることがあるかもしれない。
人の全身状態を数値で評価する西洋医学の性質上、医療従事者は「死」というものを理性的。理論的にみることができる。
数値をみることである程度、「死」というものを予測できる。
そのため医学を知らない人が聞いたらびっくりするようなことを考えたり、話していたりしていることがあるかもしれない。
医療従事者は数値をみることで人の死を受け入れることができる。
でも、医学を知らない人は見えることが全て。
死を受け入れることができるかできないかは経過が重要となる。
でも、医学を知らない人は見えることが全て。
死を受け入れることができるかできないかは経過が重要となる。
本人の表情はどうか。
きつそうにしているのか、痛そうにしているのか。
息は楽にしているのか、苦しそうなのか。
体重はやせたのか。
むくみがあるのか、ないのか。
きつそうにしているのか、痛そうにしているのか。
息は楽にしているのか、苦しそうなのか。
体重はやせたのか。
むくみがあるのか、ないのか。
そのため病気に対するお互いの受け入れ方のギャップはあまりにも大きい。
人が人でいられるのは自分の考えていることが周りに聞こえないからだと思う。
自分は全人格的人間ではない。
もちろん、そういった人間に近づけるように日々自分の言動・行動を反省している。
だが、いろいろな感情の葛藤があり、自分たち医療従事者側の常識と、そうでない側の常識とのギャップに戸惑う毎日がある。
それでも自分が自分であれるのは自分をある程度理解しているからだと思う。
その中には決して人にみられたくないような自分も存在する。
そんな自分もいるから頑張ろうと思える自分がいる。
もちろん、そういった人間に近づけるように日々自分の言動・行動を反省している。
だが、いろいろな感情の葛藤があり、自分たち医療従事者側の常識と、そうでない側の常識とのギャップに戸惑う毎日がある。
それでも自分が自分であれるのは自分をある程度理解しているからだと思う。
その中には決して人にみられたくないような自分も存在する。
そんな自分もいるから頑張ろうと思える自分がいる。
人が人でいられるのは自分の考えていることが周りに聞こえないからだと思う。
あなたはすべての自分をさらけ出すことができますか?
あなたはすべての自分をさらけ出すことができますか?