勝竜寺城 冬 | cvq243のブログ

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   (やまざきの あけちがこうぼう かれやなぎ)

 

 勝竜寺城は、西国街道へ続く軍事上の重要拠点でした。

 

 三好三人衆を京より追放する勝竜寺城合戦で、織田信長が勝利します。

 

 信長から西山を任された細川藤孝が入城、勝竜寺城の改修をします。

 

 天正6年(1578年)8月、明智光秀の娘ガラシャが、細川忠興に嫁ぎ

 

 この城で過ごします。

 

             

 

 その後細川藤孝、忠興は、丹後平定の為、舞鶴の田辺城へ移ります。

 

 本能寺の変が起こり、天正10年(1582年)大山崎の天王山の戦いになります。

 

 明智軍は勝竜寺城を攻め落し、山崎で秀吉軍とぶつかりますが、

 

 天王山を秀吉に奪われ、敗走し、勝竜寺城に籠ります。

 

 光秀が期待していた細川藤孝は、支援の手を差し伸べず、戦の後

 

 隠居して幽斎と名乗り家督を忠興に譲ります。

 

 数日後、勝竜寺城も秀吉に攻められて、坂本城に逃げ戻る前に討ち取られます。

 

  

 

 お城の中は、休憩室と展示室で気楽に入れます。

 

 「時は今、あめが下しる 五月哉」光秀の愛宕神社の連歌ですね。

 

 明智は土岐源氏で、土岐と時。雨と天で天下。

 

 本能寺の変を決意した事が窺える、とよく言われていますね。

 

 「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 

 ガラシャの辞世の和歌です。

 

 関ヶ原の夫忠興の働きの妨げにならぬよう、捕虜になる事を避け、

 

 大阪で自刃。(キリシタンなので、自殺は禁じられてるので家来の槍で死にます)

 

 38才の若さでした。

 

                     お堀の鯉

 

 少々のパンでは足りそうにないほど、沢山の鯉がいました。