(やまざきの あけちがこうぼう かれやなぎ)
勝竜寺城は、西国街道へ続く軍事上の重要拠点でした。
三好三人衆を京より追放する勝竜寺城合戦で、織田信長が勝利します。
信長から西山を任された細川藤孝が入城、勝竜寺城の改修をします。
天正6年(1578年)8月、明智光秀の娘ガラシャが、細川忠興に嫁ぎ
この城で過ごします。
その後細川藤孝、忠興は、丹後平定の為、舞鶴の田辺城へ移ります。
本能寺の変が起こり、天正10年(1582年)大山崎の天王山の戦いになります。
明智軍は勝竜寺城を攻め落し、山崎で秀吉軍とぶつかりますが、
天王山を秀吉に奪われ、敗走し、勝竜寺城に籠ります。
光秀が期待していた細川藤孝は、支援の手を差し伸べず、戦の後
隠居して幽斎と名乗り家督を忠興に譲ります。
数日後、勝竜寺城も秀吉に攻められて、坂本城に逃げ戻る前に討ち取られます。
お城の中は、休憩室と展示室で気楽に入れます。
「時は今、あめが下しる 五月哉」光秀の愛宕神社の連歌ですね。
明智は土岐源氏で、土岐と時。雨と天で天下。
本能寺の変を決意した事が窺える、とよく言われていますね。
「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
ガラシャの辞世の和歌です。
関ヶ原の夫忠興の働きの妨げにならぬよう、捕虜になる事を避け、
大阪で自刃。(キリシタンなので、自殺は禁じられてるので家来の槍で死にます)
38才の若さでした。
少々のパンでは足りそうにないほど、沢山の鯉がいました。