母の突然死とパーキンソン病

 

この病気が始まったのは、約12年前のあの日。。そう、突然の母の死からだった。

 

パーキンソン病・・・私の場合は、遺伝子を持っていたところに強いストレスが加わり、発症したのだろうと医師から言われた。自分の脳内でドーパミンが作り出せなくなる病気だ。始まった頃は、何とも言えないバランスの悪さや体調不良に苦しみ、整体や鍼灸、セミナーから霊能者との面談まで、ありとあらゆる事にトライし、検証し、という日々が続いたが、8年前にこの病気に間違いないと言われた。

 

きっかけは、あの日。

忘れもしない、その日は朝から大量の雨が降りしきる大阪に私はいた。

ファッショングッズの販売会社に長く務め、ブランドチーフという責任あるポジションに就いていたので、その展示会のために出張していた。

あの出来事は、シングルの中年バリバリキャリアウーマンの私と、それを支える母に起きたこれ以上はない不幸だったと思う。

 

あの日は、虫の知らせというか、朝からなんとも言えない嫌な気分が続いていた。日にちもあの9.11と同じ日だったのは、いまだに不思議だ。

前日に電話した時には、いつもと変わらない母の元気な声が聞こえていたので、その様な心配は特にしていなかった。70代だったが、薬のお世話にもならず健康な人だったから。

 

 

その日は何故か、私が何度電話しても母は電話を取らなかった。夜に近くなると、今度は不安ばかりになっていった。電車を乗り継ぎ、家にたどり着いたのは、夜の11時近かったと思う。長い一日をやっと終え、神奈川の自宅近くに戻った時には、駅から家に続く道は滝の様な集中豪雨で、目の前も見えない様な状態だった。

私は玄関に傘を放り出して、鍵を開けそこいら中の電気をつけた。そして和室に入った時、そこに倒れてもう息をしていない母を見つけた。

心筋梗塞だった。

 

人生が変わった!

 

わたしの人生は、その時点からすっかり様変わりしてしまった。

 

その直後からだった。自分の身体が、フラフラと定まらず、朝起きぬけに右手が震えるようになったのは。

起き上がって何かし始めると、震えはすぐに収まったが、次の日もまた次の日も同じことが起きた。

体のバランスも悪く、ソファのような柔らかいものに座ると、身体がぐにゃぐにゃになった。自分の体内で明らかに、何かが起こっているという事だけはわかったのだが、それが特定できないまま月日は流れていった。

 

精神科のカウンセリングも3年受け、鬱病の薬もなんども体験したが、その度に貧血のような状態で倒れ、最後には飲む薬が無いと言われ、医師から鬱病では無いという診断結果で治療が終わった。

 

やっと病名がわかる

 

結局のところ、病名は自分で探し当てたようなものだ。ネットで検索して、近い病状が何という病気なのかを探り、パーキンソンの会に出席して自分の症状を話し、その中の人に病院を紹介されてわかったのだ。

母の死から4年は経っていた。

 

そこから、わたしのパーキンソン病との戦いは始まった。今、私の生活は、半日を健常者と同じように過ごし、後の半日を病人として過ごしている。

ドーパミンを作り出す薬は、だんだん効かなくなりますと言われていたが、今年に入ってそれが顕著になってきたように思う。

 

この病気に乗っかって金儲けしようとする自称治療院の人々

 

なぜ、今になってこの闘病記を書き始めようと思ったのか?

 

私がこの病気の治療にトライする中で、怪しい団体や治療院もかなりあった。

口の中をツボ刺激して、パーキンソン病やリウマチを完治させる、という治療院(治療費は100万円一括振込返金無しで、現在はなぜか180万円になっているそうだ)

 

どう見ても強めのヨガとバレエレッスンを、組み合わせたとしか思えない運動治療のスタジオ(これも、恐ろしく高いのに、パーキンソン改善と言った途端、日本国中から患者が押し寄せている状態)

などを見てきた中で、何の宣伝もせずボールを使ったヨガのサークル活動だけで地道に、患者の健康を考えてくれているところもあり、そんなこんなを体験談など交えながら、ブログにしてみようと思ったからだ。

 

まず、パーキンソン病はちょっとやそっとの東洋医学の治療法で治るような簡単な病気ではない。

患者は現在も増え続け、今や16万人になろうとしているらしい。

そして、この病気を抱えた人は、藁にもすがる思いで治療法を探し続けている。

 

だから、私の視線でこの病気の事を日々のブログとして書いて行こうと思っている。

 

読んでくださった方、ありがとうございます。