元文4年(1739)に、七世本因坊秀伯の七段昇段に林因長門入と井上春哲因碩が反対したため、秀伯と因碩の間で勝負碁が行われた。
当時、寺社奉行としてこの問題に対応したのが牧野越中守貞通(延岡潘)である。
今回は、牧野越中守の生涯と、勝負碁の経緯について紹介する。
牧野貞通の経歴(勝負碁開始以前)
牧野貞通は、宝永4年(1707)に、徳川綱吉の側用人を務めた牧野成貞の長男として生まれる。この時、成貞は74歳である。男子に恵まれなかった成貞は家臣の子である成春を養子にして、元禄8年(1695)に家督を譲り隠居。悠々自適の生活を送っていた。なお、成貞は下総関宿藩(73000石)の藩主であったが、成春は成貞の隠居料も含めて、三河吉田藩(80000石)に加増移封されている。
貞通が生まれた年に成春は亡くなり、その子で9歳の成央が跡を継いだが、正徳2年(1712)に成貞が亡くなると、幼少を理由に減封こそされなかったものの日向延岡潘への国替えとなった。その成央が、享保4年(1719)に21歳で早世したため、貞通が家督を相続している。
享保19年(1734)に奏者番となり、翌年には寺社奉行を兼任した。
寺社奉行は「江戸町奉行」、「勘定奉行」と共に三代奉行の一つに数えられるが、他の二つが旗本の役職であったのに対し、寺社奉行は譜代大名が務めたことから、三奉行の筆頭格ともいわれていた。業務は寺社の領地、建物、僧侶や神官に関わることであるが、楽人(雅楽)、陰陽師、囲碁将棋師の管轄も担当していた。
寺社奉行の定員は四人である。勝負碁騒動のあった元文4年5月当時の奉行は、牧野貞通(延岡潘)、大岡忠相(旗本)、山名豊就(交代寄合旗本)、本多正珍(駿河田中藩)であり、在任期間は牧野越中守が最長であった。
なお、山名氏は大名ではないが、参勤交代を行い、大名と同じ待遇を受けていた交代寄合旗本なので問題なかったのだろう。一方で、大岡忠相は旗本からの異例の抜擢であったことから、ポストを一つ奪われた大名側から嫌がらせを受け、江戸城内で大名以外が立ち入る事が出来ない区域にあった寺社奉行の詰め所への立ち入りを拒否されていたという。この状態は数年続き、事態に気付いた吉宗により寺社奉行の詰め所が設置されると共に、後に大岡は大名に引き上げられている。
寺社奉行は月番の交代勤務であり、自邸を役宅としていた。また、月3回(六・十八・二十七日)集まり、寄合(相談)が行われていた。
牧野越中守がこの問題を担当することとなったのは、秀伯が勝負碁を願い出た時の月番寺社奉行であったからである。
なお、元文4年は牧野家にとっても大きな動きがあった年である。貞通の伯祖父(成貞の父の兄)の家系である越後長岡藩では、藩主の牧野忠周が病弱のため、妹を養女として貞通の嗣子である忠敬を婿養子として迎えることとなった。合わせて、貞通の家を長岡藩牧野家の分家と位置付ける手続きもなされている。このような慌ただしい時期に貞通は勝負碁の対応をしていたことになる。
勝負碁の経緯
享保18年(1733)に、師匠の六世本因坊知伯が急死し、急遽家督を継承した秀伯は、六段となって数年経ったことから、そろそろ上手(七段)への昇段を考えていた。師匠が若くして亡くなり、囲碁界全体が活気を失っていたので、自分が早く上がり、この状況を打破したいと考えていたのかもしれない。
もともと、家元間には「仲ヶ間和順」と呼ばれる申し合わせにより、当主クラスの昇段については一定の期間が経てばお互いに認め合ってきたので、問題なく承認されると考えていた。
ところが、安井仙角を介して林門入と井上因碩に了承を求めたところ、両者はこれを認めなかった。七段上手の因碩ともう少し対局し、実力を見極めてから考えた方が良いというのが理由であったが、実際のところは、前年に門入の名人碁所就任に賛同するよう秀伯に打診した際に、秀伯が断ったために、幕府への就任願い提出が見送られたことへの報復ともいわれている。
これに対して秀伯は、元文4年5月に、勝負碁により決着をはかるよう月番寺社奉行の牧野越中守へ願い出た。
牧野越中守は、それほど囲碁について詳しくなかったと思われるが、もともと本因坊家とは近い関係にあった。父の牧野成貞が三世本因坊道悦や四世本因坊道策と親しく、自らを本因坊門下と称するくらいの囲碁好きであったことから、貞通の代となっても家臣が本因坊家に出入していたという。秀伯とも面識があったのではないだろうか。また、元文2年(1737)には、将棋の伊藤宗看が、次席などで囲碁が将棋より上に定められていた慣例を改めるよう訴えた「碁将棋名順訴訟事件」が起き、大岡忠相が慣例を改める必要は無いと裁定しているが、牧野越中守も寺社奉行として話し合いに参加し、囲碁界の情報を得ていたと考えられる。
9月に入って、林門入と井上因碩は牧野邸に呼び出され、役人の須藤文左衛門による聞き取りが行われた。しかし、いくら自分達の主張を説明しても、あまり理解されず、秀伯の根回しを感じ取っていたという。特に、秀伯が主張する、勝負碁では、六段の秀伯に対して八段半名人の林門入、七段の井上因碩とも「互先」で打つという申し出は承諾しがたいものであった。
危機感を抱いた林門入は、懇意にしていた寺社奉行の大岡と山名を訪ね、経緯を説明した。このような問題は月番奉行が独断で決めるのではなく、協議が行われるので、事前に理解してもらおうというのだ。
家元達(門入は病気のため欠席)は、10月18日に呼び出され、四人の寺社奉行列座の中で、越中守より次のように言い渡された。
・本因坊の門入と因碩との勝負碁は、手合を「互先」ではなく、本因坊の「先々先」で行う事。
・一年以内に二十番、ひと月に三番行う事。
・月番寺社奉行宅内にて、来る27日より打ち始め、仙角・門利は代わる代わる出席する事。
「互先」の手合いが却下されたのは、門入の働きかけが功を奏したためであろうか。
これに対し、門入は10月23日に病気を理由に対局を拒否する口上書を役人の須藤へ提出し承認されている。一方、因碩は「因碩の先番より打つように」と須藤より言い聞かされたが、再三拒否していた。そのため、越中守が直々に二十番碁は「其方先番より始める様に」と言い渡し、そのまま引っ込んでしまったといい、因碩が反論する間もなく段取りが決まってしまった。
一般的に、この勝負碁の第一局は元文4年11月17日の御城碁で打たれたとされているが、実際には最初の通告通り10月27日に始まっている。しかし、夕方に打掛となった際に、打たれたのはまだ五十一手までと、かなり時間がかかったため、後日、牧野越中守は、打継は御城碁の下打ちとして打つようにと指示し、その結果が御城碁にて披露された。結果は因碩の二目勝ちである。対局に時間がかかるのは、持ち時間が無い時代であり、ましてや互いの名誉を賭けた勝負碁ならば仕方がないことである。
続いて11月18日、19日の二日間で打たれた第二局は秀伯の十目勝ちで終わり、その勢いを恐れたのか、門入は22日に牧野越中守宅を訪ね、役人へ秀伯の昇段を認める旨の伺いを立てた。しかし、越中守は勝負碁を打たせたいと考えていたようで、その後、何の沙汰もなかったという。
月番のタイミングの問題であろうが、牧野邸で勝負碁が打たれたのは、第三局と第四局の二回のみである。
12月6日から3日間で行われた第三局では、実施にあたり一騒動が起こっている。
囲碁の家元は、例年12月から3月までの間、「御暇拝領」と呼ばれる長期休暇に入り、慣例ではその間は勝負碁も行われていなかった。そのため、林門入は先例に従い、勝負碁を来年4月まで休止するよう、口上書を因碩と連名で越中守に提出した。門入は他の奉行にも説明し賛同を得ていたという。しかし、各奉行の協議で越中守は、御暇中とはいえ、皆在府中なので勝負碁を打たせたいと主張し、結局、他の奉行も了承せざるを得なかったという。口上書に秀伯の名が無いことから、対局を急ぎたい秀伯が根回ししたのではないかと考えられている。
第四局は12月18日に牧野越中守宅で始まったが、記録には、7日目の24日に「本因坊俄に不快(病)にて引籠り候故相済み申さず」と、途中で秀伯が病を発したことが記されている。対局は療養後の元文5年正月18日に大岡越前守宅で打ち継がれ、黒番因碩の13目勝ちとなった。秀伯の病は結核と考えられ、これ以降、秀伯は病の身で勝負碁を争っていくことになる。
その後の対局は秀伯の体調を気遣いながら続けられ、3月23日から5日間で行われた第六局は、秀伯の黒番で持碁に終わる。これまでの成績は秀伯の三勝二敗一持碁であったが、秀伯が優位な黒番でジゴという結果は、因碩の実力を別にしても、体力の衰えがかなり影響していたと思われた。
そうした中、四月に入って将棋家元の伊藤宗看名人が、両者の仲介に乗り出す。囲碁及び将棋方には、揉め事が起きたとき、相互に仲介の労を取るという慣例があり、秀伯の病状のこともあり、ある程度の対局が行われたタイミングで動き出したのだろう。
宗看は牧野越中守のもとを訪ね、和談の申し出について相談したところ、口上書にして持参するよう指示を受けた。宗看は秀伯、因碩と面談し、秀伯の昇段について双方が合意に達した旨の口上書を作成し、4月3日に牧野越中守へ提出した。
これで問題が解決するかに思われたが、牧野越中守がこの口上書を寺社奉行の会議に提出したところ、他の奉行達から厳しい批判を浴びることとなった。
口上書の内容は、「秀伯の昇段の申入れに対し、門入・因碩は棋力を確かめずに進めては差し障りがあるので、相応の勝負碁を打った上で検討しようと返答し、因碩、本因坊の勝負碁が六番まで終了した。ここで、伊藤宗看が仲介に立ち、本因坊の昇段について双方合意に達したので認めてほしい」というものである。しかし、他の奉行達は勝負碁になっているのだから、「相応の勝負碁を打った」が理由では筋が通らない。「本因坊の碁の出来が良いから昇段させる」という内容に改めるべきだと、独断で内意を与えた牧野越中守の対応の甘さが指摘されたのだ。
しかし、これには因碩が異議を唱えている。これでは因碩が勝負碁に敗れて昇段を認めたことになり、面目が立たないというのである。こうして、話がまとまらないまま、4月18日に第七局が打たれることになった。越中守にしてみれば、もう一、二局打っている内になんとかしようと考えていたのかもしれないが、病身の秀伯のことを考えず、中止の英断ができなかったことを林門入は批難している。
第七局については、「七ツ時分(午後四時頃)、本因坊俄に不快」とある。秀伯が体調を崩して打掛となり、再開は4月23日と決まったが、今度は因碩が病となって、四月中に再開されることはなかった。ただ、この頃に打った因碩の棋譜が遺されていることから、因碩は仮病により、秀伯の快復を待っていたのではないかと考えられている。
5月に入り、6日に月番の大岡越前守邸で打ち継がれた対局は、白番秀伯の二目勝ちであった。秀伯は大いに満足し、翌日に門入宅を訪れ、気持ちの有り様を述べてわだかまりを解いたと伝えられている。なお、門入はこのときの因碩の碁は平常と違い全体的に不出来であったことから、因碩の気遣いであったのだろうと推察している。
第八局は5月18日、19日の二日間で行われ、白番因碩の三目勝ちとなった。
そして、5月27日の記録に「秀伯病重く引籠る」とあり、吐血があり対局が困難な状態となってしまった。
秀伯の添願人である安井仙角は、それでもなお、秀伯が勝負碁のことを忘れず床の中でも考えている様子を見て、門入、因碩と協議を始めている。昇段の件は別にしても、せめて和解して勝負碁を終了させようというのだ。門入と因碩も大いに同情し、和解の願書が牧野越中守に提出され認められている。
秀伯は和解後まもなく、元文6年2月4日に、各家元を枕辺に招いて門下の小崎伯元を相続人とすることを託し、11日四ツ時(午前10時頃)に永い眠りについた。享年二十六歳。
牧野越中守貞通の晩年
秀伯と因碩の勝負碁を取り仕切った牧野越中守は、勝負碁が終了してから二年後の寛保2年(1742)に京都所司代へ就任するまで寺社奉行を務めている。また、延享4年(1747)には常陸笠間藩への国替えとなり、笠間牧野家は幕末まで続いていくことになる。なお、最後の笠間藩主・牧野貞寧は囲碁の愛好家であり、明治期に元家臣の子で、囲碁の才能があった石井千治を方円社へ入塾させている。石井は後に本因坊丈和の三男で、方円社二代目社長の中川亀三郎の養子となり、方円社4代目社長として囲碁界を牽引していく。
牧野越中守貞通は、寛延2年(1749)に任地の京都において43歳で没している。
笠間牧野家の菩提寺である要津寺(東京都墨田区千歳2丁目)に貞通は葬られていると思われるが、残念ながら墓所は関係者以外立ち入り禁止で確認することはできない。
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