晋の初代皇帝 司馬炎(武帝) | 囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

 魏・呉・蜀が覇権を競った三国時代の中国は、司馬炎(武帝)が建国した晋(西晋)により統一されている。
 司馬炎の祖父、司馬懿は、蜀の諸葛亮と何度も戦いを繰り広げた魏の重臣で、その子で司馬炎の父である司馬昭は蜀を滅ぼすことによって魏内で絶大な権力を握り、相国、そして晋王となる。
 咸熙2年(265)に司馬昭がが没し、晋王・相国の位を継承した司馬炎は、元帝(曹奐)に禅譲を迫り、新王朝を「晋」を興す。
 即位当初の司馬炎は、各地に一族を郡王として封じて政権を安定させると共に、有能な人材を登用し、その言葉に耳を傾けていたという。
 しかし、咸寧6年(280)に呉を滅ぼし中国を統一した後は、政治への興味を失ってしまい、人望がある実弟の司馬攸を冷遇し、暗愚として知られた息子の司馬衷を皇太子に据えるなど、後々の禍根を残すこととなる。
 余談であるが、縁起担ぎ、厄除けの意味で塩を玄関先の置く「盛り塩」という風習があるが、一説には女色にふけったことでも知られる司馬炎が、1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、毎夜、羊に引かせた車に乗って回り、羊の車が止まったところの女性のもとで一夜をともにしたと言われ、宮女たちが羊を止めるために自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛って食べさせたという故事が起源であるとも言われている。
 太熙元年(290)に司馬炎が亡くなると内乱が勃発し、それに乗じた匈奴、鮮卑といった異民族の侵攻により長安が陥落し晋は滅亡する。
 この時、江南にあった一族の司馬睿は318年に皇帝に即位し、建康を都として晋を再興している。そのため、司馬炎が興した晋は西晋、司馬睿が興した晋は東晋と区別して呼ばれている。
 なお、もともと都があった華北地域は異民族による小国が乱立する五胡十六国時代を迎え、その後は581年に隋より再び統一されるまで、中国は南北の二大勢力が対峙する南北朝時代へと移行していく。

 晋を建国した司馬炎(武帝)には囲碁の逸話が残されている。
 呉を滅ぼして統一するときのことである。
 武帝が中書令(政務長官)の張華と碁を打っていたとき、鎮南大将軍の杜預から呉討伐の許可を求める上奏文が届けられるが、武帝は無言のまま碁を打ち続けていたという。
 この頃は、まだ武帝は重臣の意見を聞き入れていた時期であり、武帝の心中を察した張華は手をおさめ、碁盤を脇に押しやって「陛下は聖明にして神武、朝野は安らかで国は富み兵は強く、統制されている。呉主は荒淫で驕虐、今これを討てば、労せずして天下は定まるでしょう」と進言した。
 この言葉に励まされた武帝は呉を攻める決断をし、呉を滅ぼして中国を統一したという。
 大きな歴史的転換への断が囲碁の対局中に下されたということである。