蜀山人(大田南畝) | 囲碁史人名録

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大田南畝肖像(『先哲像傳』)

 

 大田南畝(おおた なんぽ)は、天明期における江戸町人文学の中心的な人物で、南畝の号の他に、四方赤良(よものあから)、蜀山人(しょくさんじん)などと号し、狂歌師、戯作者としても活躍している。
 本名は大田覃(ふかし)。寛延2年(1749)、江戸の牛込の御徒を勤める貧しい御家人の家に生まれ、15歳の時に江戸六歌仙の一人、内山椿軒の門に入って、国学・漢学や漢詩・狂詩などを学ぶ。
 17歳で御徒見習いとして幕臣となるが、学問もそのまま続け、明和4年(1767)に刊行した狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり狂歌会を催すなど、当時上方で人気のあった狂歌が江戸で流行するきっかけを作った他、洒落本など多方面で活躍。当時は、田沼意次による重商主義政策の影響で商人文化が花開いていた時代であり、時流に乗った大田南畝は文人の中心人物として活動を活発化させていった。
 土用の丑の日にうなぎを食べるという風習は、夏場に売り上げが落ちるウナギの販売促進のために平賀源内が考えたキャッチコピーが始まりであると言われているが、一説には同時期に活躍していた大田南畝が考案したものという話もあるそうだ。
 ところが、田沼が失脚し、松平定信による寛政の改革が始まると、狂歌は風紀を乱すとして取り締まりの対象となり、大田は筆を置き幕臣としての本業に専念することとなる。
 太田は、寛政4年(1792)、学問吟味と呼ばれる試験で首席となり、狂歌で名を馳せたため出世は望めないと人々が噂する中で、寛政8年(1796)に支配勘定に昇進し、大阪銅座、長崎奉行所などへ赴任している。
 この頃には幕府の取り締まりも沈静化していて、大阪銅座時代には人々に請われて、蜀山人の号で狂歌を書き贈るなど活動を再開していき、蜀山人の名が知れ渡っていくようになる。「蜀山」とは中国では銅山の事だそうだ。
 文化4年(1807)には隅田川に架かる永代橋が崩落するという事故を自ら取材して証言集『夢の憂橋』を出版。
 文政6年(1823)に75歳で亡くなっている。
 辞世の句は「生き過ぎて七十五年くいつぶし 限り知られる天地の恩」。

【囲碁のはなし】
 蜀山人は囲碁が好きだったようで、囲碁に関する漢詩や狂歌が残されている。

漢詩
「碁を善するの人に贈る 時随幽澗竹 或作橘中人 不解手談趣 寧知坐隠真
「街卒の碁を囲むを観る 撃柝抱関知阿誰 六番街上路多岐 手談不答傍人問 坐隠唯囲一局碁

 中でも広く知られているのは上野公園にある句碑である。

   一めんの花の碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲

 桜の名所として知られていた寛永寺の黒門(総門)で、咲き誇る桜の花を碁盤に見立て、黒門と雲を碁石に例えた詩である。