小村寿太郎 | 囲碁史人名録

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棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

小村寿太郎

 

 明治期の外交官で外務大臣を歴任した小村寿太郎は、安政2年(1855)に、日向国飫肥藩(宮崎県日南市)の下級藩士の家に生まれ、アメリカのハーバード大学留学を経て司法省へ入省し大審院判事などを務めている。
 明治17年(1884)に外務省へ転じると、陸奥宗光外相の知遇を得て、明治26年(1893)には清国臨時代理公使として日清戦争後の事後処理にあたっている。
 明治34年(1901)第1次桂内閣で外務大臣に就任。日英同盟締結に尽力し、日露戦争後の明治38年(1905)にはポーツマス会議日本全権としてロシアとの交渉にあたり、ポーツマス条約を調印している。なお、ロシアはアメリカの仲介により和平交渉には応じたものの、まだ十分に余禄があり強行な態度を崩さなかったため会議は難航し、日本への樺太南部の割譲、およびロシアの満州、朝鮮半島からの撤兵は決定したが戦争賠償金には一切応じなかった。そのため、戦争のために増税を強いられてきた国民の不満が爆発して「日比谷焼打事件」などの暴動が発生、暴徒化した国民により小村邸への投石も行われたという。
 小村は一貫して日本の大陸進出を主張してきた人物で、その後の韓国併合にも大きく関わっている。

 

 小村はその風貌や低い身長から「ねずみ公使」とあだ名されていて、清国の政治家、李鴻章と対面した際、巨漢の李が「日本人とは皆閣下のように小さいのか」と背の低さを嘲笑ったところ、「我が国では、大男、総身に智恵が回りかねといいます」と切り返したという逸話が残されている。

 読書と囲碁が趣味だったと言われ、小村寿太郎には囲碁の逸話も残されている。
 米国公使として訪米した際にも、碁盤と碁石を持っていったと言われ、公使館での囲碁の相手は、もっぱら海軍の留学生として訪米していた秋山真之が務めていた。
 秋山は、後に連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦参謀として活躍し日露戦争勝利に大きく貢献しているが、日露戦争において外交面で活躍した小村とは、一緒に囲碁を打つ仲であったのだ。

 

小村寿太郎の墓

 

 明治44年(1911)に日米通商航海条約を調印し、幕末以来の不平等条約を解消して関税自主権の回復を果たした小村寿太郎は、同年の桂内閣総辞職により政界を引退し、同年11月26日に56歳で亡くなり青山霊園に葬られている。

小村寿太郎の墓 青山霊園 1種ロ8号