徳川綱吉の側用人 牧野成貞 | 囲碁史人名録

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牧野成貞

 

黒 牧野成貞 白 安井算知(貞享4年(1687) 235手黒2目勝)

 

 五代将軍徳川綱吉の時代に、将軍の命を老中に伝達し、また老中の上申を将軍に取り次ぐ役職「側用人」が誕生するが、初代側用人の牧野成貞は囲碁の愛好家としても知られていた。
 寛永11年(1635)旗本・牧野儀成の次男として生まれた成貞は、万治3年(1660)に将軍徳川家光の庶子・徳川綱吉の近習となり、翌年に綱吉が上野館林藩主になると奏者番として仕え、後に家老に就任している。
 延宝8年(1680)綱吉が将軍世子になり、成貞も側衆としてこれに従い1万3000石の大名へ取り立てられる。そして天和元年(1681)に側用人に任じられ、綱吉の最側近として初期の綱吉政権を支えていく。
 特に貞享元年(1684)に大老・堀田正俊が江戸城内で暗殺されたのを機に、老中の御用部屋が将軍の居所から遠ざけられ、将軍と老中の仲介役である側用人の権力は拡大していく。
 囲碁を趣味としていた成貞は本因坊道悦に師事し、自ら本因坊門下を称していた。成貞は道策や道悦と二子で打っていたが、ある時、自分が大名であるために手心を加えているのではないかと疑問を抱き、自分の実力を確かめるため安井算知に対局を申し込んでいる。
 かつて本因坊道悦と争碁を行い名人碁所返上へと追い込まれ安井算知であれば本因坊門下である自分に手心を加える訳がないと考えたのだ。
 そして二子での対局した結果、成貞の二目勝ちとなり自分の実力に納得したと言われている。
 しかし実際のところ、いくら算知が道悦と対立していたとは言え、そこは同じ碁打ちとして本因坊家の面目をつぶすことなく、うまく負けてやったと言うのが真相なのかもしれない。
 本因坊道策は熊本藩3代藩主・細川綱利と乳兄弟(道策の母が綱利の乳母)であるが、細川家は綱利の家督相続時に不手際があった事を理由に幕府に家宝を没収されそうになり、対応について本因坊家へ相談を持ち掛けている。
 本因坊は、この頃すでに側用人を退いていた成貞のアドバイスを受けて対応している。なお、政界工作用の資金は道策の弟、井上道砂因碩に準備させ、細川家と井上家の結びつきを強めている。
 綱吉が度々屋敷を訪れるなど老中を凌ぐ権勢を誇った成貞は、加増により7万3000石となるが、やがて綱吉は柳沢吉保を重用し、その立場は吉保へと移行していく。
 成貞は元禄8年(1695)に嫡男の成春に家督を譲り隠居しているが、綱吉の計らいにより牧野家は8万石に加増のうえ三河吉田藩に転封となる。
 宝永6年(1709)に綱吉が亡くなった後は大夢と号し、正徳2年(1712)に亡くなる。享年79。東京都墨田区千歳の要津寺へ葬られる。
 牧野家はこの後、日向延岡藩を経て常陸笠間藩へ転封し幕末まで続いている。成貞の囲碁好きが子孫に引き継がれたのか、最後の藩主・牧野貞寧も囲碁の愛好家であり、明治期に囲碁の才能がある元藩士の息子、石井千治を東京へ呼び寄せ方円社へ入れている。石井千治は後に二代目中川亀三郎として方円社社長となり囲碁界を牽引していく。