音読のすすめ(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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以前、このブログで「積読(つんどく)」をテーマに読書を論じました。
今日は音読のお話しです。
学生時代と違い、本を読むときに声に出す習慣は、大人になるとぐっと減ります。
独りで仕事しているのでなければ、仕事場で声を出して文字を読むのは迷惑ですから。
ただ、自分など旅行会社に居るときに、パスポートの姓名や、予約番号、地名や列車名など、間違ったら命取りになるような文字を読むときは、敢えて声に出して読むようにしておりました。
パスポートの文字など、ビザ取得の際に一字違っていただけで旅行自体がご破算ということもあり得ます。
また、列車名や座席番号を間違えたためにトラブルになるというケースは、意外に多いのです。
お金を扱う仕事の場合も、金額を間違えたら大変なことになりますから、やはり数字を何度も声に出して確認したり、お札を数えたりしたものです。

人間は思い込みが激しい動物ですから、思っただけで声に出して確認しないと勘違いしたままということが起こり得ます。
列車の運転手さんや車掌さんが指差喚呼(しさかんこ)といって、指で差して声に出すことで確認をするのと同じです。
中高生時代、合宿などで独りになるチャンスがあるときに、人気のいない場所に行って、好きな本の好きな箇所を声に出して読んでいたことがあります。
傍目には台本の朗読(私は演劇部経験がありません)に見えたかもしれません。
目の前に広がる景色と自分の声がシンクロして、学校の図書室で黙読するのとは全然違う、心の開放感に満たされた読書ができた記憶があります。
ただ、先輩に目撃されて中断を余儀なくされましたが。
遠藤周作さんの小説、「女の一生」には、幼馴染みと詩の朗読をする、特攻隊員の文学青年が出てきました。
その描写が一幅の絵画のように美しかったのを覚えています。

自助グループの話になりますが、大概の12ステップグループでは、分かち合いに入る前に、文献と呼ばれるそのプログラムを紹介したり、実践をしたり、経験を分かち合うための書籍を輪読します。
輪読のことを「回し読み」と表現する方もいますが、回読では一冊の本をリレーしながら順繰りに読んでゆくことを指すので、参加者全員がそれぞれに同じ本を持ってきて、(或いは借りて)先へ先へと順送りにして読んでゆくのは、高校までの国語の授業で長文を順に読んだり、大学のゼミナールなどでにおいて共同で解釈研究するために行われたりする会読に近いと思われます。
学校を卒業し、研究機関などで輪読会や抄読会があれば別ですが、グループのうちから誰か一人が書籍を音読し、それを残り全員が耳で聴くという体験は、現代の読書というよりは、例えばギリシャにおけるホメーロスの叙事詩や、インドにおけるヒンズー教の聖典「バガヴァッド・ギーター、初期仏教の阿含経典、聖書の詩篇などの韻文詞について、古代に行われていた朗誦し、それを聴く体験に近いものと思われます。

文字の歴史に対して、黙読の歴史はずっと浅いと本で読んだ記憶があります。
書籍などが無い時代、言葉は声、すなわち口伝によってのみ伝わりました。
古代インドなどでは、文字に残して記録し、記憶しようすることは、師匠から弟子に声による韻を踏んで身体でもって伝える口承文化においては、卑しい、恥ずべきこととされていたようです。
実際に本という記録媒体が登場してからのちも、それが普及するまでの長い歴史の中では音読が基本であり、黙読を最初にしたのはヒッポのアウグスティヌスともいわれています。
日本においても、江戸時代の寺子屋教育において、読み、書き、算術の「読み」は、素読といって、最初は師匠について読み、それを何度も繰り返して暗誦することが求められていました。
つまり、四書五経など難しい漢文の意味も分からずに、ひたすら暗記して声に出して読むことを求められたのです。
緒方洪庵の主宰する適塾における学習でも、さかんにオランダ語を暗誦することによって自己のものにしてゆく描写が登場します。
弘法大師によって提唱された、虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう=光明真言を100日かけて100万回唱える密教の修法)によって記憶力が増大するというのも、声に出して脳の中の記憶スペースを拡大すると考えれば、あながち根拠のないことにならないのではないでしょうか。

自助グループの話に戻りますが、参加者の中には分かち合いそのものよりも、文献の輪読の方が好きで参加している人もいます。
また、書籍の文章を読み聴きしているうちに、複数の人が自分の心に浮かんだ過去の経験や、今の率直な気持ち、そして未来への希望を語ることで、その文献に様々な方面から光が当たり、これまで独りで読んでいた時とは違う解釈、異なった立場での読み方があることに気付く人もいます。
さらに、本好きの人たちの間では、「こんな本もあるよ」と、自分がかつて読書した書籍を紹介しあうということも起こります。
これに似た体験は、本屋さんやサークルなどで行われる読書会に近いと思われるのですが、そちらは余程有名でファンが多い書物に限られるのではないでしょうか。
やはり、同じ目的をもって集まった人たちの方が、輪読は参加者個々人に多くのものをもたらすと思われます。

もうひとつ、キリスト教系の学校などで保護者を対象として行われる聖書研究会がありますが、これは聖書を読むという点で、キリスト教に馴染みのない、宗教にアレルギーがある方には敷居が高いかもしれません。
それでも私が長年参加していた会は、聖書の訳の違いは気にせず、統一するよりもむしろ別訳を持ちよって輪読した方が、解釈に幅が出て良いというスタンスでした。
通常、プロテスタント系の教会では新改訳か新共同訳、カトリック系では新共同訳やフランシスコ会訳などが選ばれるのですが、私が参加した会ではカトリックの学校なのに、新改訳でもOKでした。
なお、プロテスタントとカトリックの違いを訊かれることがあるのですが、日曜に行われる儀礼は前者が礼拝でそれを管理運営するのが牧師、後者はミサとか典礼と呼んで、それを司式するのが司祭です。
一般には牧師さんのことを「先生」とか「牧師先生(さん)」と呼ぶのに対し、司祭は「神父さま(さん)」と呼ばれます。
この違いが分からない人が結構いて、「牧師先生と聖歌を歌う」(プロテスタントは「賛美歌」が正解。聖公会なら正しい)とか「神父さまの執り行う礼拝に出席する」(カトリックは「ミサにあずかる」が正解)と文章を綴ってしまう人がおります。
(その2へ続く)