旧甲州街道へブロンプトンをつれて 8.上石原宿から9.府中宿(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(西光寺を出るとすぐに中央自動車道をくぐります)

西調布駅入口交差点から80m西の西光寺から旧甲州街道の旅を続けます。
すぐ先で中央自動車道の下をくぐり、右側に黒板塀の家をみながら西へ進むと、間もなく調布市を出て府中市に入ります。

西光寺から420mさき、飛田給(とびたきゅう)一丁目バス停付近が、上石原宿の西端にあたり、国領、下布田、上布田、下石原、上石原と続いた布田五宿はここで終わり、次の府中宿へ向かいます。
『江戸名所図会』によれば、布田五宿より多摩川の上手(上流方向)は川幅が狭くて巨石が多く、逆に下手(下流方向)は海が近いために潮の盈虚(えいきょ=満ち欠け、つまり海水が上ってきて、汽水域だったということ)があって、この布田のあたりがちょうど布を川に晒すのに適当な水質、流量と流速だったという意味のことが書いてあります。
だから「布田」と「石原」なのでしょう。
現在の多摩川の汽水域は丸子橋より下流といいますから、江戸時代は今より江戸湾が内陸へ深く入っていたのだと思われ、そういう意味でも現在の調布市は多摩川で布を調えるのにちょうど良い位置だったのだと思われます。
なお、「下…」よりも「上…」の方が京都に近いというのはセオリー通りです。


そこから260mさき飛田給駅入口交差点で交差するのがスタジアム通りです。
ここを右折して国道20号線を渡った270m先にあるのが、味の素スタジアムです。
ネーミングライツにより、「味スタ」と略称して呼ばれるこの競技場の正式名称は東京スタジアムで、2つのプロサッカーチームがホームスタジアムとして使用しています。
交差点を逆に左折すると、120mほどで京王線の飛田給駅です。
つまり、味の素スタジアムの最寄り駅になります。
「とびたきゅう」とは面白い、しかし難読の駅名です。
飛田という姓の領主から給された田、或いは飛田氏へ給された田という説があるみたいですが「飛田」はもともと「ひでん」と読み、「悲田」とも書き、「悲田」とは仏教用語で福報(善い行いの報い)を受ける、敬田(きょうでん)、恩田(おんでん)と併せた三福田のひとつで、田を人に喩え、病人や貧窮者など、あわれむべき人たちを指します。
こういう人たちをあわれみ、施すことによって福果を得るという考えだそうです。

(飛田給薬師堂)
飛田給駅入口交差点をすぎ、40m左側にあるのが、飛田給薬師堂です。
ここは江戸中期の1702年、仙台藩士の松前意仙が諸国遍歴の後にこの地に居を定め、医業を施しながら仏道を志して薬師如来像をつくり、尊像完成後は自ら穴を掘ってそこに入り、そのまま入定したと伝えられている場所です。
薬師堂の西側から、旧甲州街道と分かれて左前方へと伸びる細道がありますが、これがつつじヶ丘のところで説明した「品川道」を兼ねた、江戸初期、つまり五街道制定当時の甲州街道です。
この240m先で左手からくる品川街道と合流し、2.7㎞さきの東府中駅付近で復帰します。ブロンプトンのような小径車は、都道になっている旧甲州街道よりも、こちらの道の方が交通量は少なく圧倒的に走り易いのですが、残念なことに途中西武多摩川線の白糸台駅付近で道は途切れています。(迂回路あり)」
なお、旧甲州街道の旅はこの先山越えなども含め、時代によって道が変遷した区間が多数でてきますが、ブロンプトンをつれての旅は基本的には現在残って通れる道の中で、なるべく古い道を辿ることとし、廃道になっている、或いは一部でも消滅している道までは対象としないことにします。
(道なき道を、ブロンプトンを抱えて進むのは、本当に大変ですから)

(品川街道)

(常夜灯―右)
そのまま都道を西へ進み、最初の信号で調布市から府中市へと入ったあと、370m先交差点の右側北東角に、「秋葉山大権現」「諏訪大明神」「稲荷大明神」と刻まれている常夜灯があります。
ところで「権現」と「明神」の違いが分かりますか。
権現とは、日本の神々とは、仏や菩薩が仮の姿で現れたものだとする神仏習合思想(これを本地垂迹=ほんちすいじゃく思想といいます)に基づく尊称のことで「権」には「仮の」という意味があるので「権現」で「仮に神の形をとって現れた」という意味になります。
これに対し明神というのは、仏教からみた神の称号で、こちらは国内鎮守の神という意味で「明らかな姿で現れる」の意味だったのが、前述の本地垂迹思想が広まって、仏の化身であると考えられるようになったため、結局は同じことになったのですが、経緯からすると権現は平安・鎌倉期、明神は室町期以降とその出現に時代的にズレがあるそうです。

(諏訪神社 この辺りが浅野長政蟄居の屋敷)
常夜灯から130mほど先の信号のある交差点(白糸台6-1)で、互い違いに交差するのが旧大山道です。
大山道というと、国道246号線に沿っている大山街道が有名ですが、南関東に複数張り巡らされた大山へと参詣するための巡礼の道は、すべて大山道と呼ばれました。
この辺、鎌倉街道が一本で無いのと事情が似ています。
関東山地の南端に位置する大山は、大きな建物の無い当時は、北関東における筑波山同様にどこからでも見える信仰の対象だったのでしょう。
この交差点を左折して道なりにクランクして進み、京王線の線路を踏切で渡った290m先の諏訪神社から西隣の幼稚園あたりが、浅野長政屋敷跡です。
史跡碑は幼稚園の中にあるらしく、残念ながら確認できませんでした。
浅野長政とは、また歴史好きの間でも微妙な立ち位置の戦国武将の名前が出てきました。
同じ名前の黒田長政とか、一字違いの浅井長政と混同されやすいのですが、かれは尾張出身で、織田信長の弓衆だった親戚の家に養子に入りました。
同じ家の養女が秀吉に嫁いだねね(北政所)ということで、血はつながっていないものの、豊臣秀吉の縁戚筋となり、彼のもとで大名に出世したのち、秀吉の死後関ケ原の戦いでは、五奉行の中でただ一人徳川方につきました。

(押立神社)

(龍光寺)
ここは豊臣政権で五奉行のひとりに数えられた当時の浅野長政が、豊臣秀吉とその五大老のひとりであった前田利家没後の1599年、淀殿側近の大野治長、前田家の嫡男利長とともに、徳川家康に対する謀反の嫌疑をかけられた際、家督を嫡男の幸長に譲り、隠棲した場所だそうです。
上述の通り、浅野長政、幸長親子は翌年に起きた関ケ原の戦いではそれぞれ、徳川秀忠、家康につきましたから、この謀反騒動は前田家や浅野家が豊臣方から徳川方に寝返るために仕組まれた家康による作為ではなかったかという噂があります。
つまり、徳川方と通謀のうえ、豊臣家大事ゆえに家康を亡き者にしようとする芝居をうち、謹慎ののち家康から許されて彼のもとにつくというシナリオです。
戦国時代の裏切りには、こんな手の込んだ方法もあるのかと驚くだけでなく、家康の権謀術数は、見苦しいほどにあざといと感じます。
結局関ケ原の論功行賞によって幸長は紀伊国和歌山37万石、長政は隠居料として常陸国真壁に5万石を与えられました。
しかしながら、浅野家というと時代がくだったのちの「殿中でござる」でお馴染みの彼ですよね。
幸長の家系はそのまま安芸浅野家となり、長政の真壁を継いだ彼の三男長重は、その子長直の代に播磨国赤穂に転封となり、この長重のひ孫が、赤穂事件の原因となる松の廊下の彼(浅野長矩)です。

(観音院)


(下染屋の碑)
そのまま大山道をすすみ、はけた坂を下って白糸台小学校を左に見ながらさらに南下し、900mさきで中央自動車道をくぐり、名前が押立通りに変わった1,150mさき右側にあるのが押立神社です。
押立の地名は、多摩川の氾濫によって田が押し切られたことから、「おした」→「おしたて」になったと言われ、この先の多摩川には押立の渡しがあり、対岸の稲毛市も洪水で分断されたため、(川崎市多摩区に布田という地名があるように)同じ押立という地名が存在します。
押立神社のすぐ先の押立文化センター西信号を左折し120mさきの左側にあるのが、天台宗の龍光寺です。
本尊は慈覚大師の作とされている高さ88㎝の阿弥陀如来像(府中市重文)ですが、この像の両眼には水晶がはめ込まれており、平安時代の仏像を鎌倉時代になって修理する際に、この補修が為されたものと推定されています。
龍光寺にはまた、江戸時代においてこの地の新田開発に取り組み、江戸幕府の奉行に出世した川崎平右衛門定孝の墓があります。

(本願寺と車返の碑)
旧甲州街道に戻ります。
大山道と交差する信号から330mさき右側にあるのが天台宗の観音院です。
通称染屋観音と呼ばれ、江戸前期の1631年に深大寺の法印の弟子によって、深大寺の隠居寺として建てられました。
お隣の車返団地入口交差点の角には、下染屋の碑があります。
ここは昔、総戸数37戸の小さな村でしたが、調布(てづくりぬの)を染めたところであったとか、鎌倉時代に染殿があったとかいわれてその地名になったとされています。
この交差点を左折して白糸台通りを南下し、京王線をくぐった390m先を右折してすぐにあるのが、浄土宗の本願寺です。
11世紀の後半、源頼朝の奥州征伐の際、彼の命により藤原秀郷の持仏だった薬師如来を家来の畠山重忠が移送の途中、ここで荷車が立ち往生しました。
そして重忠に「草庵をむすび仏像を安置せよ」との夢のお告げがあり、その通りにして奥州から運んできた荷車をここで引き返させたのが、このあたりが「車返村」と呼ばれるようになった由来だそうです。
なお寺の前のがけ下には、車返団地が広がります。
本願寺の前の道を70m西に進み右折して60m北上、さらに左折して100mすすむと京王線の武蔵台野駅南口に出ます。
武蔵野台駅の北西290mの地点には、西武多摩川線の白糸台駅があるのですが、面白いことにこの2駅の出口は互いにそっぽを向いたような位置に改札が設けられています。
京王沿線に住む学生が、東京外語大学、国際基督教大学、亜細亜大学など、多摩川線沿線の学校に通おうと思ったら(その逆も同じ)ここで乗り換えねばならないのですが、まわり道を強いられるようで不便そうです。

(武蔵野台駅と白糸台駅)
旧甲州街道に戻り、車返団地入口交差点から250m先の路地を右折し、130m先の突き当りを右折して、国道20号線の築堤下にあるのが、旧陸軍調布飛行場白糸台掩体(えんたい)壕です。
掩体壕とは、飛行場に駐機する軍用機を上空から空襲してくる敵機から守るため、コンクリートの屋根で覆った有蓋型と、周囲の土を土塁状に盛った無蓋型がありますが、ここの掩体壕は前者です。
調布飛行場は東京調布飛行場という名前の公共飛行場として、1941年に竣工しましたが、すぐに大戦となり、主に陸軍が使用したそうです。
戦争後期は首都防空の要として、侵入してくる米国のB29爆撃機を迎撃するための戦闘機が出撃していましたが、やがてその部隊は沖縄戦支援のために九州へ移動し、偵察機のみになりました。
ここに格納されたという三式戦闘機飛燕は、高度10,000m付近で飛ぶB29に対しては、他の戦闘機同様性能不足で、迎撃にあがっても、その高度に達すると浮いているのがやっとという状態で、一撃をくわえるのが精一杯だったといいます。
今の掩体壕を見ると、下部が埋まっているのかかなり天井が低いのですが、近寄ってみると中の空間は広く、コンクリートも分厚くて頑丈にできています。
案内板によると、このような掩体壕が調布飛行場の周囲を広く囲むようにいくつもあったそうです。

(白糸台掩体壕)
旧甲州街道へ戻って140m西へ進むと、前述した西武多摩川線の踏切を渡ります。
手前右側には庚申塔が立っています。
実は旧甲州街道を日本橋から出発して、ここが最初の鉄道線踏切となります。
旧東海道の最初の踏切は、品川宿の手前、八つ山橋付近の京急本線だったことを考えると、旧甲州街道の方が最初の踏切は出発点の日本橋からずっと西になりました。
これは、中央線と京王線の間を西へ進む旧甲州街道が、地下鉄を除いて地上を走る鉄道と交差するのは四谷(JR)、新宿(JR、小田急)、明大前(京王井の頭)と、極端に少なかったことと関係していると思われます。
それにしても、西武多摩川線とはまた、マイナーな路線と踏切で交差するものです。
その前身は1917年に開業した多摩鉄道といって、多摩川の砂利採取運搬が敷設の主な目的でした。
10年後に多摩鉄道は西武鉄道に買収されました。
かの会社の創業者はデベロッパーとしてやり手で、戦前の早いうちから多摩ニュータウンの開発構想をつかんでおり、この路線を買収したのは将来多摩川を越えて西武鉄道を神奈川県内へ伸ばす野望があったからだとも噂されました。
しかし、ニュータウン計画が具現化したときに彼は他界しており、運輸省から免許もおりず、その後多摩川の砂利採取は禁じられたので、西武多摩川線は単線で、他の西武鉄道との接続が一切ない、離れ小島のような路線に留まり、今や都会のローカル線になっています。

(西武多摩川線の踏切)
実はこのようなマイナー路線ばかりを好んで乗る「乗り鉄」さんたちが一定数存在するわけですが、前回書いたように、南の終点是政駅から南武線の南多摩駅は橋を渡ってすぐなので、私などはブロンプトンで走れば武蔵小杉方面へ帰り易くなり、このあたりをお散歩するには利用価値があるのです。
なお、西武多摩川線は無料の「サイクルトレイン」を平日は9:00~17:00の間、土休日は全日実施しています。(持ち込める自転車のサイズに制限、持ち込み可能車両は指定あり)
わたしの知る限り、都内で唯一のサイクルトレインです。
下り終点の是政までゆけば多摩川の土手を走れますし、武蔵境駅は北へ1㎞ちょっと走れば東京都水道局境浄水場の北西角で保谷狭山自然公園自転車道に接続します。
つまり真ん中を西武多摩川線で介すると、狭山湖から羽田空港までの長距離自転車道ができてしまいます。

(西武多摩川線)


次回は、この旧甲州街道にある西武多摩川線の踏切を渡ったところから、次回は府中宿へ向かいたいと思います。