『脳を鍛えるには運動しかない』ジョン・J・レイティ/ エリック・ヘイガーマン著を読む(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(前回からの続き)

私の場合、依存症についてかなり多くの本を読んでいたため、第7章の「依存症 セルフコントロールのしくみを再生する」については大変興味深く読ませてもらいました。
依存症というのは、脳の報酬中枢がおかしくなってしまっている病気なのです。

門外漢できちんとした本も読まないまま依存症と向き合う自称福祉職の人間には、依存症は意志の問題だとか、気合が足りないとか、(ある部分だけそれは正鵠を得ていても)実際は大間違いな評価を下している人が多いのですが、どんな依存症者でも、彼らの脳内で起きていることは共通しています。
普通の人は嫌なことを忘れたり、陽気な気分になったりするためにアルコールを飲用して酩酊状態をつくりだすのに、代表的なアルコール依存症の場合、酔っぱらうためではなく素面(しらふ)になるために酒を飲むわけですから、もう手段と目的が完全に倒置してしまっています。

でも、その行為と報酬の逆転現象が、自分ではひっくり返せないほどに習慣化して嗜癖に陥ってしまっているのです。
そして、依存の度合いにもよりますが、中毒と呼ばれる状態から回復に舵を切っても、緩解するまでにはかなりの期間を要します。
かりにそれがかなって、10年、20年と飲まない日々を過ごしたとしても、最初の1杯に手をつけたらすぐにもとに戻ってしまいます。
だから、彼らにとっては今日一日アルコールを断つことができれば、それが回復なのです。
有酸素運動は、依存症が脳に及ぼす直接的な有毒作用を緩和させるだけではなく、依存対象を絶った際に必ず生じる空虚さを埋める効果があります。
むかしの漫画にバッターボックスに立つ前に酒を呷る野球選手が登場しましたが、さすがに給水ポイントごとに酒を飲んでギアチェンジするマラソン選手はあり得ないでしょう。
それは依存対象をお酒からランニングに単純に変えただけじゃないかと評価する人がいるかもしれませんが、依存対象に耽溺するのと有酸素運動をするのでは、モチベーションの点で正反対です。
やる気がおきないからといって酒に手を出す人はいても、やる気が無いから着替えて靴を履き替えて屋外に出て走り出す人はおりません。


本書によると、人間は太古の昔、アンテロープ(レイヨウ)という牛の仲間を狩ることで生き延びてきた期間が長かったそうです。
アンテロープは敏捷な動物ですが、持久力はありません。
だから追いかけ続けて獲物が疲れて動けなくなるまで、人間は走り続けなければ食料を獲得できず、生き延びて進化することができなかった時代を経ていて、現在のような極端な運動不足の生活になったのは、長い人類の歴史の内、ここ30年から40年くらいのごく最近の出来事で、人間の身体も脳も、この急激な環境の変化に十分対応できず、様々なひずみが生じて現代病として表出してきているのだそうです。
そこで本書が推奨しているのは脳をつくりそだて、その活性化を保つような運動です。

(中年になってからそんなことをしても手遅れと考えるかたもいらっしゃいますが、最近の研究で脳細胞は歳をとって数を減らしても全体的な影響は微小で、驚くほど可塑性、代替性に富むことが分かってきています)
第10章の最後に、ウォーキング、ジョギング、ランニングに分けてまとめてありますが、各章の最後にも「こんな運動をしよう」と題されて、現代病に対する予防やその脱却からこういう種類の有酸素運動をどれくらいしたら良いかがアドバイスされています。
しかし、ウォーキングなど低負荷の運動は、あくまでもジョギングやランニングへ移行させるステップで、理想は中強度、高強度(かなり苦しいと感じる最大心拍数の90%くらいまで)の有酸素運動を15分から30分程度毎日続けるというもので、しかも単調な運動よりも、トレイルランのような変化にとんだコースを身体のバランスをとりながら走るほうがよいのだそうです。
また、運動にしろ食事にしろ、脳に対して適度なストレスをかけることが、逆にストレスに対して抗い続けることのできる脳と身体をつくる旨が紹介されています。
(ブロッコリーの抗酸化作用というのは、それが直接人間に働きかけるのではなく、虫がつかないよう防衛として備えている野菜に含まれる毒素が身体に対して低作用ながら負の影響を及ぼすために、結果として人間の脳がそれに抗酸化で対抗するという話は、「なんだそういうことだったのか」と読んでいて驚きました)


この本の最後に「やり通すこと」として、運動を継続することの重要性が説かれています。
「有酸素運動」という名のサプリがあれば良いのですが、そんなものは存在しません。
しかし、このどうしたら毎日やる気を持続させて、3日坊主にならない有酸素運動の習慣をつけるかについて、本文を一読しただけでは分からないかもしれません。
というのは、殆どの部分は運動がいかに脳にとって必要不可欠で良い効果をもたらすかについての記述で占められて、それは分かったけれどもどうしたらそのような運動を習慣として身につけるかについての具体的な方法論はあまり目立たないからです。
冒頭の「ネーパーヴィルの奇跡」では、毎日の有酸素運動の際に心拍計を装着して、運動量を数値化して可視化することを推奨しています。
最大心拍数は(220-年齢)で求められるので、その60~70%が軽い運動、70~80%が普通の有酸素運動、80~90%がきついとされる目標の有酸素運動に分類されるので、ウォーキングにしてもサイクリングにしてもランニングにしても、どのくらいのペースでそこまで心拍数をあげられるのかを各自で把握できます。
この原理はよくわかります。
「あす朝早く来てください」と伝えるのと、「あす朝7時30分に来てください」というのでは、同じ人が相手でも後段の伝え方の方が遅刻する確率が減るのと一緒です。
毎日数値を記録していれば、どれくらいの強度の運動をどれくらいの時間続けたら一日の目標を達成できたかがよくわかり、それを以てよしとできます。
つまり無駄な運動をだらだらとせずに済むわけです。

もうひとつは、本人の好みに合った、つまり本人が続けられる運動であれば、そして目標の数値を達成させることができれば何でも良いということです。
ネーパーヴィル・セントラル高校では、運動の種類は問わず、心拍計の目標数値さえ達成させ続けることができたら、生徒には「優」の評価を全員に与えていました。
運動が苦手な子ならランニングマシンやエアロバイクを使って心拍数を上げればよいという話には、ちょっと合理的すぎやしないかとさえ感じました。
そこまで読んで、私は一年を通して朝の4時5時の出勤前に走っている人を多く見かけることに思い至りました。
私はてっきり彼らがダイエットのために走っているのかと思っていたのですが、この本を読んでからというもの、将来の病気予防のため、今現在病気を食い止めるために走っている人もかなり含まれていると確信を持つようになりました。

と同時に、医者から指摘され、推奨されても「自分は大丈夫」とか「代替で運動になっている」と否認したり言い訳する患者がそれにも増して多く存在すると思えるようになりました。
人間、「想像できないものについては予測もできない」とはよく言ったものだと思います。

このことは、想像力の欠如した人間が福祉や教育にいると、ケアされる側、教わる側をダメにすることを如実に示していると思われます。

ということは、それを自分に焼き直すのであれば、3度の飯よりもスキーが好きという人間は、毎日スキーができて最大心拍数を上げられれば目標達成なわけですが、残念なことにスキーはシーズンスポーツで夏場にはできません。

(クロストレーナーと呼ばれるマシンを使いにジム通いするという手もありますが)
ならば次善の策として、常に旅人でいたい自分は、旅行に出た先でも運動するということになりますが、私は西行法師や芭蕉ではありませんから、働かずに毎日旅を続けてそこで有酸素運動していては経済的に破綻してしまいます。
ということは、やはり仕事の前後に運動するのでなければ、通勤の際に有酸素運動するしかなさそうです。
毎日走ったり泳いだりしてから仕事に行く(若い頃に経験済みです)か、ブロンプトンで走りながら仕事に向かうか、どちらかを選べと言われたら、私は迷わず後者を選択します。
なぜなら、ブロンプトンの鉄道併用通勤であれば、ルートの内容や距離の長さ、ペース配分まで、自由度が高い有酸素運動ができそうだからです。
しかも、旅と同じように経路を毎日変えることもできるということは、仕事をする日常生活の中で走る路地を一本違えるだけで、そこには未知の世界が広がっているわけで、毎日同じコースを走ったり、同じプールで泳いだりしつづけ、それを一生続けるような鉄の意志を持ち続ける自信のない自分には、うってつけの「やり遂げるためのモチベーション」になり得ると思うからです。

さらに、朝一番の運動はもっとも心拍数を上げやすいという「0時限体育」の教訓を活かせます。
そこに「旅先で有酸素運動するためのトレーニング」という理由まで付けば、これはもう、有酸素運動通勤するしかないでしょうと感じてしまいます。
比較的家の近所であってもルートを変更してその街ごとの歴史に日常的に触れ、また鉄道の使い方を様々に工夫するという意味でも、そのような習慣は人生という旅の一部になりますから。


ということで、本書を読んでから心拍計を買って使ってみようかなという気持ちになり、また、半ば固定化してしまっている鎌倉への往復通勤も、経路や自転車で走る距離を様々に変えてみたいと思うようになりました。
その結果は改めてレポートしたいと思います。
著者が本書を執筆した動機は、「運動が脳のはたらきをどれほど向上させるかを多くの人が知り、それをモチベーションとして積極的に運動を生活にとりいれることになること」だと訳者があとがきの中に触れていました。
私もそれには賛成です。
本を読んで新しい習慣をつけようとして、三日坊主の失敗を繰り返した経験から書かせてもらうと、モチベーション(やる気)というものは、イソップ物語の「太陽と北風」のように、「運動をしないと糖尿病や認知症になるぞ」という恐怖や不安を煽るような動機からよりも、「運動をすると安心のうちに、より充実した毎日が送れるようになる」というような前向きな理由からの方が長続きするし、たとえ失敗しても何度でもやり直そうという気持ちに立ち戻り易いのです。
これはそのまま本書を読んでみて「どうしたら運動を続けられるかが書いていない」という感想を持つ人と、「運動習慣の大切さは分かった。ならば自分に合う運動を探してみよう」という人に分かれるのに同期しているようです。

運動やスポーツという活動は、読書や旅がそうであるように他人に肩代わりしてもらうことができません。

一緒にやってくれる人や仲間がいれば、それも切っ掛けにはなるでしょうが、最終的には個々人の内発的動機付けが決め手になると思われます。

もちろん、上に書いたようにそういう名前の錠剤を飲めば事足れりというものでもありません。

その「やる気」は脳内のSPARKから発するというところが、本題のミソなのです。

だからこそ自分で運動した積み重ねはそのまま自己の資産になります。
たとえ習慣化に失敗したとしても、その経験は別のやり方、次のステップのための貴重な資料として使えます。

そんな風に人生を失敗を繰り返しながらも工夫しながら切り拓き続けてゆける、いままで失敗したことがないことが自慢のまま年をとり、「他人がケアしてくれないなら死んだ方がまし」とか「お金を使って他人にリハビリしてもらえば、自分は動かなくても良い」と嘯いてますます運動不足が原因で糖尿病や認知症という負のスパイラルに陥ることの無いような、死ぬまで前向きでいられる高齢者になってゆきたいものです。

そのような人間として歳を重ねてこそ、他人の病を癒す手伝いをし、或いは他者の育ちに手を貸すような人となれるのではないでしょうか。

私は色々なお年寄りを観察していて、心からそう思います。

本当は、運動のほかに自分を見つめ、人間を超えた対象に身を委ねるという、モチベーションを保つためのもう一つの大きな要因(依存症を例にとるなら、「やる気を求めて神に祈る」ということ)があるのですが、それは別の機会に書きたいと思います。
このブログを読んでくださっている皆さまが、健康な生活を自分のものとされ、善き年の取り方が実現されることを願っております。


<こんな人にお勧めです>
・運動が脳に与える影響について知りたい
・生活習慣病等を予防したい、そのような病気の誘因となる習慣から脱却したい
・適度に運動して仕事や学習のスキルや能力を向上させたい
・うつ病や依存症、ストレスフルな生活や更年期障害から回復したい。
・脳内のアンチエイジングに取り組みたい

<この本を読んで読みたくなった本>
『ストレスに負けない脳―心と体を癒すしくみを探る』マキューアン・ブルース/ラズリー・エリザベス・ノートン著 桜内篤子訳 早川書房
『脳を教育する』ポズナー・マイケル/ロスバート・メアリー・K著 近藤隆文訳 青灯社
『GO WILD 野生の体を取り戻せ!―科学が教えるトレイルラン、低炭水化物食、マインドフルネス』レィティ・ジョン/マニング・リチャード著 野中香方子訳 NHK出版