『脳を鍛えるには運動しかない』ジョン・J・レイティ/ エリック・ヘイガーマン著を読む(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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ここ5年くらいの間に、私の周囲にはアルツハイマー認知症、レビー小体型認知症、パーキンソン病など神経疾患を患う人たちが急速に増えました。

もっともそれ以前に同じような年代の間では糖尿病の話で持ち切りでしたが。
「(親の世代が)そういう年齢なのだ」と言われても、ではこれ以上悪くならないために、彼らには何が必要で、何をしてはならないのかが見えてこず、また、何が原因で彼らがそのような病気に陥ったのかが分からなければ、病気そのものを理解したことにはなりません。
それに、もしも今、原因を知って予防策を講じておかねば、自分だってこの先10歳、20歳と年をとったら同じようにならないとも限らないわけで、彼らのなかで、悲惨を通り越して虚無となってしまった人の現在をみていると、自分を含めた人間が老いることや、残りの人生の意味を考えずにはいられなくなり、3年くらい前に『脳はいかに治癒をもたらすか―神経可塑性研究の最前線』(ノーマン・ドイジ著 高橋洋訳 紀伊国屋書店刊2016年)という本を読みました。
その中で、歩くことでパーキンソン病を突っぱねた患者が登場し、その章で紹介されていたのが本書です。

ちょうどブロンプトンでの旧街道走破のために、毎日自転車通勤をすると生活だけでなく、人生に対する考えかたそのものが根底から変わるような気がしていて、もともと、「有酸素運動するとなぜ頭がすっきりして、読書や仕事の効率があがるのか」というテーマに興味を持っていた私には、ブロンプトンに乗るようになって自分の身体に起きた細かな変化でそれを確信するようになり、いつかは医学的にそれを説明してくれるような本に出会いたいと思っていたわけで、参考文献としえは表題にものすごく惹かれましたし、瓢箪から駒のような感じで目の前に現れた本だったのです。
しかし、糖尿病とともに、神経性疾患のことを知るためには、もっと基本的な本を読まねばならないこともあって、こちらの本は、忘れないうちにとすぐに購入したものの、2年近く本棚にツンドク状態のままでした。
今回、私の周囲にいらっしゃる「患者さん方」の主治医さんたちが、口を揃えるようにして「有酸素運動を日課としてください」と勧めるのを傍で聞いていて、それから街の様子を見直してみると、あらためて中高年や老年期の人に向けた、リハビリだけでなく予防医学を目的としたスポーツジムがたくさんあるのに気付き、「あの本があったな」と本棚から引っ張り出して読む気になったわけです。

もしこの本を買って積んでおかなかったら、今題名や著者名、出版社名までを覚えていて買えたかどうかわからないだろうと思うと、参考文献としてビビッと来る題名の本は、ほかを後回しにしてでも買っておいた方が良いし、それが経済的に無理なら、ネットの購入リストに理由をメモして載せておいた方が良いと思いました。
さて、本書はハーバード大学医学部で精神医学を専門とする准教授が2008年に書いた著作です。
『脳を鍛えるには運動しかない』ってかなりパンチの効いた邦題ですが、原題は”SPARK:The Revolutionary New Science of Exercise and the Brain ”です。
例によって直訳すると、「閃き:運動と脳に関する新しく革命的な科学」になります。
“Spark”という言葉は、ニューロンと呼ばれる人間の脳内に860億あるとされる神経細胞が、その先端にあるシナプスと呼ばれる軸索をつないだり離したり、つなぎ直したりという様子のダイナミックさにかけているのだと思っていたら、訳者が最後に書いていました。
すなわち、“spark”には火花という意味のほかに生気や才気といった意味があり、「脳を発火(spark)させて生気(spark)を取り戻そう」という洒落なのだそうです。

もしかして、昔事件になった某ヨットスクールのような、乱暴な教育論を振りかざされるのかと思ってもみたのですが、ちゃんとした医学者が書いているだけあって、きちんとした統計と医学的所見に基づいて記述されています。
但し専門用語が多いので、記憶や読書、睡眠など、日常的に脳内で何がどうなっているのか、つまり脳神経の働きについて基本知識が無いと(巻末に用語解説がついてはいるものの)ちょっとついてゆけないかもしれません。
この本を読む前に読んでおいてよかったと思う本を3冊ほどあげておきます。
①    『脳からみた認知症』伊古田俊夫著 講談社ブルーバックス刊
介護者にお勧め。
認知症に罹患した患者の脳内で何が起きているのか、素人にも易しく解説しています。
②    『進化しすぎた脳』―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 池谷裕二著 講談社ブルーバックス刊
読み物としてとても面白い。
中高生を相手にしたゼミ形式の授業記録なので、説明が丁寧で易しく、記憶のメカニズムを様々な角度から眺めています。
③    『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳―深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる』メアリアン・ウルフ著 大田直子訳 インターシフト刊
特に第2章の読書の最中脳内で何が起きているかについて、本書の参考になるし、本を読む人は自己の読書について客観視できるので、お勧めします。

話を本書(『脳を鍛えるには運動しかない』)に戻します。
導入部の「革命へようこそ」と題された章には、アメリカ中西部、シカゴの西郊にあるイリノイ州ネーパーヴィル(Naperville グーグル表記では「ネイパービル」)という街の、セントラル高校で起きた1990年代の出来事について紹介しています。
この高校の野球コーチであり、近隣の中学で体育教師をしていたフィル・ローラーは、個々の生徒たちがどうしたら体育の授業でベストを尽くし、それを評価できるのかについて悩んでいました。
あるとき、体育教師の集まる会議で、スポンサー企業から、学校で試してもらうべく供された景品の中に、当時数百ドルもする心拍計を彼は見つけます。
主催者側だったことをいいことに、この景品を自分の中学校が当たったことにして持ち帰った彼は、さっそくそれを装着させて生徒にマラソンを走らせます。
なかでもぽっちゃりと太っているために他の生徒のようには走れず、いつも集団からおいてゆかれる女子生徒の心拍数を見た時、彼は驚愕しました。
彼女の心拍数はその年齢の最大値を指していたからです。

それ以降、彼は運動が苦手な生徒たちに「もっと気合を入れてやれ」等のハッパをかけるのを一切やめにしました。
代りに、予算を計上して生徒数分の心拍計を用意し、どんな運動をしても良いから、一定既定の心拍数まで上昇させ、その運動を一定の時間続けられたことで絶対的な評価をつけるようにしました。
持久走でできなければ、エクササイズルームのランニングマシンやエアロバイクを利用しても良いし、ゲーム規定にこだわらない、少人数制のサッカーやバレーボール、はてはダンスレボリューションのようなゲームでも構わず、生徒たちは自分の好みに合った運動で心拍数をあげることができれば、良い評価が得られるという形式に変わった結果、それぞれが学校の中で卒業後も各自で続けられるエクササイズを見出すようになりました。
そのなかで、心拍数を上昇させるのに効率が良いのは朝の登校直後ということが分かった生徒からの要望があり、またそうすることによってのちの授業に集中できるという生徒の声もあって、ネーパーヴィル・セントラル高校では朝の読書の運動版ともいうべき、「0時限」の選択的運動プログラムを全校生徒に課すことになりました。

すると、生徒間に教え合い、学び合う互助の学習環境がみられるようになり、それにともなって学内外でのいじめやもめごとも減少し、当然に学区内での共通テストの平均点が、この高校だけ上昇しました。
最初は地域性や通っている生徒の家庭環境の偏差によるものかと思われましたが、同じような条件の高校と比べても、成績が上回るという現象が続き、体育教師たちだけでなく、他教科の教師も含め朝の0時限授業には成績上昇と相関関係があることを認め、この出来事が「ネーパーヴィルの奇跡」として紹介されるに至って、全米中から教師たちが見学に押し掛けるようになり、「0時限」を始めた教師たちは、このプログラムについてさらに研究をすすめ、同じ有酸素運動でも不規則性を含んだりバランスをとったりする運動の方がさらに効果があり、何よりも大切なのは各生徒が自分でやる気をもって続けられることだという要点を説明するためにあちこちへ出かける羽目になりました。
すると、この噂を聞きつけた大手企業の従業員や研究職などが、子弟の教育を当地で行いたいと会社に求めるようになり、行政が誘致もしていないのにこの街にそうした企業の事業所や研究所が進出するようになった結果、この街の周囲の学区全体における中高生の学力水準をさらに押し上げて、全米の中でも抜きんでて良くなったばかりでなく、学園都市として街の生活環境も全般的に良くなっていったということです。

このあと本書は学習以外にも、ストレスや不安、うつ、注意欠陥障害、糖尿病をはじめとする生活習慣病、依存症、年齢によるホルモンバランスの変化、加齢(老い)そのもの(による認知症や癌等)に対して、有酸素運動が脳に対してどれほどの好影響を与えるかについて、様々な統計や治験データを紹介することで、証明しようとしています。
「しようとしている」と書いたのは、実際に有酸素運動が脳に与える影響について、具体的に何が起きているのかまだ全容が解明されておらず、マウスなどの動物実験も含め、「こういう実験を繰り返した結果、こうした結論が得られるにいたった」というところに留まっているからです。
というのも、大脳の中でどんな変化が起きているのかが分かるようになったのは、CT(放射線利用)やMRI(磁気・電波利用)といった断層撮影の画像処理ができる機械が発達したここ20年ほどのことで、大脳生理学の中では、たとえばなぜ夢を見るのか等、まだ完全な解明が為されていない部分が多々あるからだと思われます。
ただ、これら現代の病に対して運動、とくに人間が苦しいと感じる程度の有酸素運動がどれだけ予防となるかについて、これでもかというくらいに脳内の器質的、物質的変化について説明を繰り返しています。
ここのところ、私は教育や依存症について調べる際に、知覚や記憶の仕組み、神経症や嗜癖が脳に与える影響について、或いは発達心理学や認知心理学、運動生理学や脳科学について上述したような本をある程度読んでいたから助かりました。
しかし、他の本を読んだり辞書にあたったりしなくても、「そんなことがいま分かってきているのかな」という態度でどんどん読み飛ばしてゆき、特に自分に思い当たるトピックの章立てだけはじっくりと読めばよいと思います。
(次回に続く)