旧甲州街道へブロンプトンをつれて 3.上高井戸宿から4.国領宿へ(その5)つつじヶ丘から国領宿 | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(右手奥、パソコンショップの駐車場に妙円地蔵はあります)

つつじヶ丘交差点から旧甲州街道の旅を続けます。
このあたり、歩道は幅が狭く、また車道も車が自転車と並走できるほどの幅がありません。
しかし、東京の動脈国道20号線ですから交通量も多く、大型車も数多く往き来しています。
できれば走る時間帯を週末の早朝にしたいところです。
つつじヶ丘交差点から460m先の右側、菊野台交番前交差点のすぐ先にあるのが妙円地蔵です。
その昔、ここ金子村に住んでいた盲目の尼僧妙円が、街角に立っては念仏を唱えて喜捨を集め、この地蔵菩薩像を建立しました。
この妙円尼は村人から依頼があると加持祈祷をしていましたが、ある時からそれを断り、念仏に専念するようになり、それから1年後に遷化したそうです。

(清教寺)
妙円地蔵から200mほど旧甲州街道を進むと、柴崎駅入口交差点です。
国道から左折して大町通りに入って90mさきのT字路を右折し、そのまま道なりに進むと90m先で京王線柴崎駅前の踏切を渡ります。
柴崎駅は、むかし甲州街道の北側に柴山(雑木などが生えた小さな丘)があったことからその名前がつきました。
柴崎駅は各駅停車しか停まらない小さな駅で、駅に近い人でも、お隣のつつじヶ丘駅まで自転車で行って、そこから京王線に乗るという人も結構いるそうです。
踏切のそばに上下線のホームにあわせてそれぞれ改札があります。
(両方のホームは構内地下道でつながっています)
周りの商店街と併せて、昭和の雰囲気が残る駅です。
そのまま踏切を渡って大町通りを直進すると、250mさきの菊野台交差点で品川通りと交差します。
品川通りはまたの名を「いききの道」「いかだみち」と呼び、古くから多摩川上流で伐採した木材や、府中の大國魂(おおくにたま)神社で使ったご神木を筏に組んで下流の六郷や品川湊まで流し、人だけはこの道を通って戻ってきたからそう呼ばれたといわれています。
現在の品川通りは調布の西飛田給あたりからつつじヶ丘駅の南くらいまでで切れていて、計画はあるもののその先へはつながっていません。
しかし、この周辺の京王線沿いを自転車で走るのなら、国道20号線よりも交通量が少なくて道幅も広いので安全だと思います。


(八劔神社)
そのまま大町通りを進むと、菊野台交差点の90m先左側にあるのが、天台宗の清教寺です。
このお寺は第二次世界大戦後に、当時無住の(住職のいない)寺だった清教寺と、浅草蔵前にあった東漸寺が合併してできましたが、後者は平安時代の僧で最澄の弟子である円仁(えんにん=慈覚大師)が開いて太田道灌の庇護を受け、江戸城内にあったとされる古刹です。
本尊の行基作とされる薬師如来は秘仏で、別名「かわらけ薬師」といい、母親が土器を供えると母乳の出が良くなると信仰を集めてきました。
清教寺からさらに100mすすんだ突き当りにあるのが菊野台八劔神社です。
鎌倉後期、14代執権北条高時に仕えていた鈴木藤四郎以下8人の武士が、幕府が滅亡した際にこの地に潜伏し、当時荒野だった柴崎周辺を開拓したので、地元では産土神(うぶすながみ=その土地の守護神)に彼らの剣を奉納したのがはじまりと伝えられています。
境内には伊奈稲荷がありますが、ここに祀られているのは江戸後期の伊奈半左衛門です。
伊奈家は代々治水、土木、租税を含む農政全般に通じた旗本で、税の徴収も農村が自活できるよう、豊凶作にかかわらず比較的低率で課すというものでしたが、半左衛門は文政年間に当地が凶作などで半ば破産状態に陥った際、江戸から視察に来て惨状を目の当たりにし、私財200両を投じて村を救ったことから、恩人として祀られています。

(野川馬橋から下流方向を望む)
旧甲州街道に戻ります。
国道20号線柴崎駅入口交差点から470m南西に進むと、馬橋で野川を渡ります。
野川は多摩川の支流で、国分寺市の東、日立製作所中央研究所内の池を水源として、二子玉川のすぐ上手で多摩川に合流する一級河川です。
比較的に蛇行が少ない川で、二子玉川から野川公園付近までは川沿いの道が整備されているので、自分も武蔵小金井や国分寺へ自転車で走ってゆきたいときは、川の沿う道を使って遡ります。
また、ここから野川を遡ってゆくと、前回ご紹介した祇園寺や虎珀神社へは比較的容易にアクセスできます。
祇園寺は三鷹通りの榎橋、虎狛神社は佐須街道の又住橋からすぐですから。
半蔵門から環八の手前、上高井戸宿付近まで、武蔵野台地の主脈にあたる玉川上水沿いにすすんできた旧甲州街道は、そこから多摩川寄りに進路を変更し、仙川を渡って、ここで野川を越えたということは、台地を多摩川沿いまでかなりおりてきているということになります。
この先日野橋で多摩川を渡るまで、旧甲州街道は多摩川の左岸を西へ進むことになります。

(旧甲州街道入口交差点)
武蔵野台地は洪積台地(地質時代の洪積世に、海底に沈積して生じた地層や河川による堆積層が隆起して生成した台地のこと)で、多摩川の谷口にあたる青梅市付近を扇頂として扇状地のように広がり、南西部の多摩川沿いは、仙川、野川などが刻む数段の河岸段丘が発達しています。
また、台地が東京湾に向って広がりをみせる東部の調布、三鷹、武蔵野、世田谷、杉並、練馬のあたりでは、妙正寺池、善福寺池、三宝寺池、井の頭池などの湧水池や、崖線下のはけ(端下)からも水が湧いています。
武蔵野台地は、関東ローム層と呼ばれる赤土の堆積層の下に、粘土層をはさんだ砂れき層が横たわり、前者は3~8メートル、後者もかなり厚みがあるので、地下水位が低い(つまり井戸はかなり深く掘らないと地下水まで到達しない)という特徴があり、この水利の悪さゆえに、近世の江戸期になって井戸の深堀り技術が発達したり、上水が通されたりするまでは、耕作はもちろん、人が住むこともできなかったそうです。
ゆえに、武蔵野に文化が定着した奈良、平安期以降も、人びとは上述したような湧水のある場所か、そこから流れ出る野川のような河川沿いの場所で細々と生活を営むしかなかなく、その場所でさえ大陸からの渡来人が入ってくることによって鉄製の農具が持ち込まれて何とか開墾されたという状況だったようです。

(庚申塔)
野川馬橋から調布警察署を左にみて230mさき、旧甲州街道入口という信号で、国道20号線は右へ、旧甲州街道は直進という形で別れ、ようやく「主要国道地獄」から解放されます。
そして、ここが国領宿の入口にもなります。
といっても、国領という名前の独立した宿場が存在したわけではありません。
国領から西へ順に下布田、上布田、下石原、上石原と続く5つの地区を合わせて、布田五ヶ宿と呼ばれていました。
端から端まで三十町(3,270m)もの間に、本陣や脇本陣は1軒もなく旅籠が9軒のみで、問屋場など宿場機能も5宿あわせて一つにまとめられていました。
江戸から5里32町(約23.5㎞)と、当時の旅人は一日に8~9里歩いたことを考えると中途半端な距離だったので、さらに西の府中宿に泊まる人が多く、ここ布田五ヶ宿は間の宿のような性格だったといいます。
口の悪い旅人からは、その距離の長さと宿のまばらさから「フンドシ宿」などと陰口をたたかれていたそうです。

(園福寺)
旧甲州街道入口信号から350m進んだ四つ角を左に曲がると国領駅ですが、2012年に地下化されたので線路やホームは見えません。
国領という地名は、平安時代にここが朝廷の直轄領だったという説と、府中にあった武蔵の国の国府が直接統治する国衙領が短くされてついたという説と2説あって後者が優勢のようです。
そういえば名鉄本線にも国府(こう)という駅がありましたし、東海道本線の駅に「国府津」があります。
国領駅入口の交差点をすぎると、南西に向っていた旧甲州街道はゆるやかに右へカーブして、こんどはやや北西に向きをかえます。
このカーブの外側(進行方向左手)には祠があって、中に庚申塔があります。
440mさき左手奥には浄土真宗本願寺派の円福寺があります。
元は鎌倉にあったお寺が多摩川の近くに移され、武田信玄が中興したと伝えられています。

(三鷹通り=旧鎌倉往還)
560m進むと、布田駅前交差点です。
交差する都道121号武蔵野調布線(三鷹通り)は旧鎌倉往還のひとつで、ここまでが国領宿の範囲です。
交差点を左折して130m先の左側に布田駅があるのですが、甲州街道からは死角に当たり見えず、また駅前まで行ってもこちらも地下駅化されているので、見えるのは改札口だけです。
「布田」という地名はここと多摩川を挟んで川崎市多摩区にもありますが、どちらも多摩川の水を用いた布の生産が盛んだったことからこの名前がつき、かつては「布多」と書きました。
その布の生産も、もとは大陸からやってきた渡来人によってもたらされた、織物技術が原点だそうです。
調布、布田、染地等、布関係の地名が多いのもそういう理由のようです。
布田駅前交差点の手前右側には、真言宗豊山派の常性寺(じょうしょうじ)があります。
鎌倉時代により多摩川に近い鎌倉往還沿いに創建されましたが、度重なる洪水被害を受けてから安土桃山時代に現在の場所に移り、江戸期になって成田山新勝寺から不動明王を勧請してから、調布不動尊として親しまれるようになりました。
関東八十八か所の69番札所であり、多摩八十八か所の6番札所でもあるので、御朱印専門の窓口がありました。

(調布不動尊常性寺)
布田駅前交差点を右折し、都道121号線を北へ220m先まで進み、国道20号線に出たら渡らずに右折して80mほど歩道を新宿方向へ戻ると右側にあるのが国領神社です。
こちらも常性寺同様、古くは多摩川の近くにあった二社を統合して、お寺と一緒にこちらへ遷座されました。
鎌倉から武蔵野へと移住した荻窪、小川、小林などの一族が建立した杉森神明社の創建がはじまりと伝えられています。
ご神木とされる千年乃藤は樹齢が400年から500年と推定されています。
もとは欅の木にからんでいたそうですが、落雷によって欅が枯死する危険が出て来たところから、今のような藤棚がつくられました。
毎年4月下旬からゴールデンウィークの頃には境内が薄紫色に染まり、藤の花の匂いが国道の向かいにある小学校まで届くそうで、この風景は調布八景にも含まれているそうです。

(国領神社の藤)
次回は布田駅前交差点から旧甲州街道の旅を続けたいと思います。