旧甲州街道にブロンプトンをつれて 0.日本橋~1.内藤新宿(その4) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

内堀通りを通り、桜田門、三宅坂と時計回りに皇居の東側から西側へとまわった旧甲州街道は、半蔵門交差点で左折して、西へ向かいます。
その前に、半蔵門交差点を320m北進して、駐日英国大使館に立ち寄ってゆきましょう。
ブロンプトンはなんだかんだ言っても英国製ですから、普段これだけお世話になっている以上、ご挨拶をしていった方がよいでしょう。
2度の黒船来航の後、日米修好通商条約によってタウンゼント・ハリスが下田から麻布の善福寺に移って公使館を、横浜開港に合わせて神奈川の本覺寺に領事館を開いた1859年(安政6年)、初代駐日英国公使ラザフォード・オールコックにより高輪東禅寺(赤穂浪士で有名な泉岳寺の南、現在の高野山東京別院の下)に英国総領事館が開かれました。
その後幕府は英国を含む五か国の公使館を御殿山につくる約束をして普請にかかるものの、高杉晋作らの妨害(英国公使館焼き討ち事件)にあって頓挫します。
結局、2代目公使のハリー・パークスが、維新後に空き家となった大名屋敷群のなかからこの場所を選び、日本国政府から安い賃料で永久貸与されることになったのがここでのはじまりです。
現在の建物は1923年の関東大震災で完全倒壊したときから2代あとのもので、1929年に英国工務局設計で竣工しました。
大使館の建物としては、戦前から現存する唯一のものです。


(駐日英国大使館)
駐日英国大使館正門から少しだけ半蔵門よりの植え込みの中にあるのが、幕末当時の外交・通訳官、のちの駐日特命全権公使、アーテスト・サトウ氏の碑です。
彼は父方のソルブ(スラブ)系ドイツ人の姓、サトウ(綴りは” Satow”)が日本人によくある苗字に近いことを利用して、佐藤愛之助という日本名を名乗っていました。
彼は語学が得意だったらしく、日本に住む宣教師や日本人から日本語会話を学んだだけでなく、書道についても複数の書体を学び、半年後には幕府からの書簡(当時は書き言葉と話し言葉は別)を正確に英訳できるようになっていたといいます。
現代の日本でも、日本語に興味があって会話は得意でも、漢字も含めた和文を書くのは苦手な非日本人は沢山いますし、書体まで研究する人は稀でしょう。

(アーネスト・サトウの碑)

日本人でも英語が好きなあまり古英語からケルト語まで勉強し、カリグラフィーまでやる人間は殆どいないと思います。
また、読書魔であると同時に本の蒐集家であり、旅先では必ず本屋に立ち寄るなどして、日本だけで4万冊の本を蒐集し、現在それらの本は大英博物館ならびに英国の各大学で収蔵されているそうです。
本を全て読まないで蒐集する人を「無駄遣い」と批判する人が居ますが、本を読んでいるからこそ本の蒐集ができるわけで、読書しない人は本を集めようにもどの本をどんな順番で買っていったらよいかが分かりません。
つまり、集められた本はいずれ読まれることを予定されている本で、それを知らずに「全部読んでないのに新しい本を買っている」と他人を揶揄する人は、自分の無知を晒しているだけのことです。

(左手監視所裏手あたりに御文庫付属庫遺構があるはずです)
サトウさん、これほどの言葉オタクですから、幕末から明治にかけての日本を鋭く観察していて、薩英戦争、下関攘夷戦争などで薩長と交渉、人的な交流を深めた結果、徳川将軍は諸侯の中で最大の勢力にすぎず、条約を結んでも日本の主権者でない以上、その中身を実行できる立場にはないということを彼は見抜いており、その旨公使や本国に伝えていたため、徳川将軍こそタイクーンとして日本の主権者だと勘違いしていたフランスを出し抜いて戊辰戦争を上手に立ち回り、のちの明治政府の中でイギリスの立ち位置を確固たるものにしました。
多分、この人が居なかったら、幕末から明治にかけての日本の歴史はずい分と違った状況になっていたと思います。
彼は外交や政治の為以外でも、南は鹿児島から北は北海道まで日本国中を旅しており、登山も趣味でした。
維新後の三度目の来日時には、内縁の妻との間に3人の子を設けて認知し、以降経済的な援助をしたといいます。
岩波文庫にある彼の著書、『一外交官の見た明治維新』は、日本の言葉を理解したうえでの深い洞察に溢れています。
彼がいま生きていたら、さしずめ日本の文学や歴史オタクでその手の本を読み耽りながらあちこちを旅してまわるYoutuberをやっていたのではないでしょうか。


なお、終戦つながりで加えておきますが、駐日英国大使館前をさらに北へ進み、千鳥ヶ淵交差点を右折して代官町通りに入り右側歩道をゆくと、首都高速代官町ランプ手前で、その歩道が太くなって2本に別れます。
右手皇居側は植え込みの向こうが土手になっており、その上には石塀が続いていますが、この歩道が太くなった地点から塀を挟んで向こう側の森の中にあるのが、御文庫附属庫で、この中の会議室で、1945年8月14日から15日未明にいわゆる最後の御前会議が行われ、昭和天皇による聖断を経て、ポツダム宣言受諾が決まりました。
いまこの附属庫は朽ち果てて放置されているそうですが、歴史の大切な証言場所なので、是非とも後世に残しておいてもらいたいと思います。
こんなこと書くと、日本の敗戦が決まった場所なんて縁起でもないと、保存に反対する人もいるかもしれません。

(太田姫稲荷神社)

しかし、あの時昭和帝は、『……このような状態で本土決戦に臨んだらどうなるか、私は非常に心配である。あるいは、日本民族は、皆死んでしまわなければならないことになるのではないかと思う。そうなればどうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るのか。一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来再び立ち上がってもらう以外にこの日本を子孫に伝える方法はないと思う。……皆のものは、この場合私のことを心配してくれると思うが、私はどうなってもかまわない。私はこのように考えて、戦争を即時終結することに決心したのである』と語ったわけです。(迫水久常氏メモ)

これは、日本の降伏に先立つ3カ月前、ドイツ第三帝国がベルリンの戦いで最終局面を迎えようとしていたとき、ヒトラーユーゲントの兵士が毎日千人単位で戦死している現状を報告し、ベルリンからの退避を勧めたヘルムート・ヴァイトリング司令官に対し、『(自分の盾となって死ぬことが)若者の務めだろう』と答えて絶句させた、ヒトラー総統と好対照を為します。

(平河天満宮)
半蔵門交差点に戻ります。
三宅坂を登ってきて、FM東京の門で左折して西へ向かいます。
半蔵門から新宿通りを西へ230m、麹町1丁目交差点を左に入り、一本南側の麹町南通りの角にあるのが太田姫稲荷神社です。
言い伝えによると、室町時代に太田道灌は娘が天然痘で苦しんでいる折、その病に霊験あらたかといわれる京都南郊の一口(いもあらい)稲荷神社に祈願したところ、たちまち平癒したため、旧江戸城内に勧進して稲荷社を築いたのがはじまりで、徳川家康入府に伴い江戸城が改築された際に、神田川に架かる聖橋南詰に遷座、その後明治に入って太田姫神社と名前を改めたのち、昭和6年の御茶ノ水駅拡張工事に伴い、この場所に遷されたそうです。
現在御茶ノ水駅そばの聖橋南詰から淡路坂方面へ下りかけた線路端の椋木には、当社の本宮を示す木札が掛っているとあるので、グーグルのストリートビューで確認したところ、本当にありました。

ずい分あちこちをさ迷った神さまなのだと思いながらも、京都に一口と書いて「いもあらい」と読むお稲荷さんなんかあったかしらんと調べると、京都府久世郡久御山町に東一口、西一口という住所が出てきました。
桂川と宇治川、木津川が合流する背割堤より5㎞ほど宇治川を遡ったあたりに、中世の頃には巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれる湖のような大池があり、ここで生計をたてる漁師たちを「忌み払い」(イミハライ)と呼んだことが、「イモアライ」に転訛し、これが土地の形状「一口」と結びついて、「一口(イモアライ)」になったのだそうです。
難読地名として有名なのだとか。
東海道の日坂に事任八幡宮と書いて「ことのままはちまんぐう」がありましたが、さすがに「ひとくち稲荷」では、何だか小さな稲荷寿司の名前みたいです。
なお、巨椋池は戦前に干拓によって消滅し、現在は第二京阪道路の料金所に名を残すのみだそうです。

(清水谷坂)
太田姫稲荷神社より1本西側の道を南に100mほどゆくとあるのが、平河天満宮です。
ここも太田道灌の夢に菅原道真が立ったところから、江戸城内に建立され、徳川家康入府の際の本丸拡張によって現在地に遷されています。
その後、紀州徳川、尾張徳川、彦根井伊家の祈願所となり、新年の挨拶に宮司は将軍家へ単独拝謁を許されるほどの格式を得ていたといいます。
蘭学者の高野長英が近所に塾を開き、国学者の塙保己一の住まいも近くにあったことから、2人はよくここを参拝していたそうです。
また平河天満宮の2本北寄りの東京FM通りを西へ、清水谷坂をおりてゆくと、正面に紀尾井坂があります。

(大久保利通哀悼の碑)

上述の通り、紀州、尾張、井伊の3字をとって「紀尾井坂」とか「紀尾井町」の地名になった場所です。
清水谷坂下の信号を左折し、ニューオータニと清水谷公園の間の紀尾井町通りを南に赤坂見附方向へ行ったところにあるのが、紀尾井坂の変で斃れた、大久保利通哀悼碑です。
1878年(明治11年)、麴町区三年町霞が関(今の内閣府下交差点付近)から、赤坂仮皇居へ馬車で向かった内務卿大久保利通は、ここで石川県と島根県の士族からなる6名に襲われ暗殺されました。
一連の士族反乱を鎮圧し、盟友の西郷隆盛も西南戦争で葬った大久保は、旧士族たちからは相当に怨まれていました。

(紀尾井坂の変の現場はこの先です)
ずい分外れてしまいましたが、新宿通りに戻って西へ向かいます。
この付近の新宿通りは四ツ谷方面へ、尾根筋に沿ってカーブを繰り返しますが、道の両側は麹町です。
小さな路地がたくさんあったから、麹屋がたくさんあったからなど諸説あります。
昔は某民法テレビ放送網の本社があったので、この町名は全国区でした。

暫くゆくと、鉄道弘済会前という信号が現れます。

四ツ谷に向って交差点左側が鉄道弘済会です。

もともとは、鉄道員の事故後の生活を保障する目的から発足した公益法人で、今でも中心は障がい者、児童、老人への福祉事業が中心です。

昔の国鉄マンは、車両に轢かれたり、挟まれたりと手足を失って仕事が出来なくなる人も多かったので、今でも傘下に義肢装具サポートセンターがあります。

(鉄道弘済会前信号)

昔はKIOSKを経営している母体として有名でした。

私など時刻表マニアにとっては、交通公社発行の時刻表か、弘済出版社は発行の大時刻表かが問題だったのですが、後者は路線の並びが長距離乗り継ぎをする旅人向けではなく地域重視志向で、かつ本のサイズが大きすぎて旅行には持ってゆけないので、前者が好きでした。

でも、当時の時刻表マニアは、交通公社派が7対3くらいの割合で優勢だったと思います。

もし時刻表オタクでなかったら、あの会社に縁が無かったかもしれません。
麹町六丁目信号を過ぎると、左側に見えてくるのが上智大学です。
関東では「ソフィア」で通じる、イエズス会が開いたカトリックの学校です。
イエズス会の創設エピソードは司発行太郎氏の『街道をゆく 南蛮の道』に詳しいのですが、スペインのナバーラ州ハビエル城に生まれたバスク人のフランシスコ・ザビエルと日本との奇遇な関係に、日本のカトリック伝来については不思議な縁を感じます。
私はこの本を読むまでザビエルはポルトガル人だとばかり思っていました。
なお、上智大学の「上智」は、聖母マリアの連祷(Litaniae Lauretanae)の中にある、『上智の座、我らのために祈り給え。』(“Sedes sapientiae, Ora Pro Nobis.”)から来ているのだそうです。

(上智大学と聖イグナチオ教会)
連祷(れんとう)とは、主唱者に続いて会衆が同じフレーズを繰り返して歌う、カトリックではお馴染みのお祈りです。
私は実際に教会でこの聖母マリアの連祷を聞いたことはないのですが、上記の場合でいえば、「上智の座」を司祭が先唱すると、会衆が「我らのために祈り給え」と続け、次に「我らが喜びの源」と先唱すると、「我らのために祈り給え」と繰り返すという具合です。
プロテスタントの礼拝に馴れていると、カトリックのミサはちょっと形式ばっているようにみえますが、昔はラテン語でミサを行っていたということもあってでしょう。
幸い、自分はヴィヴァルディの「グロリア」を合唱したことがあるので、ラテン語の文言はお馴染みです。
これも余談ですが、カトリックで崇敬される聖母マリアと近代日本は因縁があるのか、12月8日、すなわち真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した日は、「無原罪の御宿り」として、イエスがマリアの胎内に宿った日として祝われ、8月15日、すなわち太平洋戦争終戦の日が、「聖母の被昇天」として、天国に召された日として祝われています。
また、マリアの誕生日は9月8日で、この日は戦後日本が国際社会に復帰した、サンフランシスコ平和条約締結の日にあたります。
プロテスタント教会では聖書のことばが重視され、聖母は単なる人間として崇敬の対象ではありませんから、一般の人はマリア像があったらカトリック教会だと思って間違いないでしょう。


この上智大学がある場所は、南のニューオータニの敷地と併せ、尾張徳川家の中屋敷でした。
四ツ谷駅寄りの角にはカトリック麹町聖イグナチオ教会という、イエズス会の創設者名を冠した教会が建っています。
東京の司教座は文京区関口にある関口教会なのですが、聖イグナチオ教会の方がある意味で有名です。
というのも、信徒数が多く、日本語以外の他言語でミサを執り行っていること以外にも、クリスマス・イブの日になると、中に入れないくらい一般の人で混雑すると聞いています。
カトリック教会は、コロナ前は信者でなくても教会に出入りできたので、駅前にあることも含め、東京ではカトリック教会というと、まずここを思い浮かべる人が多いのだと思います。
なお、組織上、上智大学と聖イグナチオ教会は別になっていて、私が親しんだ遠藤周作氏の小説にも四ツ谷の教会はよく登場しますが、小説で描写されているのは聖イグナチオ教会ではなく、大学内のイエズス会修道院に隣接しているクルトゥルハイム(ドイツ語で「文化館」の意味)と呼ばれる明治期に建てられた聖堂の方です。
今回も長くなりました。
次回は、麹町六丁目信号から続けたいと思います。