旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

田村川に架かる田村橋(34.928466, 136.298782)を渡り、旧東海道の旅は江戸から49番目の宿場である土山宿に入ってゆきます。

田村川は別名外白川といい、橋も、もとは田村橋と呼んでいたものが、いまは海道橋という名前に変わったのだそうです。

広重の版画「土山宿」は、雨中大名行列が蓑を背にこの橋を渡る様子が表現されていて、渡った先の林が田村神社の境内だとすると、この行列は西へ向かっていることがわかります。

ということは、橋は江戸時代からあったことになります。

(広重の版画はやはり雨が降っているのでした)

この海道橋、安永年間(1775年)に東海道に架けられた田村永代板橋を模したつくりになっていて、橋長、幅員、桁下高など、当時と殆ど変わらないということです。

唯一違うのが両側に設けられた欄干の高さ。

いまは安全性を考慮して1mありますが、当時は30㎝ほどだったとか。

水面から橋までの高さが6.9mということですから、当時は高所が苦手な人には怖かったと思います。

橋を渡るのは有料で3文(現在の価値にして40円程度)ですが、公用旅行の役人、橋を隔てて自宅と畑がある地元の農家は免除されていたそうです。

橋が架けられるまでは渡し船があったそうです。

宿場の入口に相応しく、橋の手前には高札場、渡った先(西詰)には番所があり、今はその位置に江戸後期の尾張の俳人、井上士朗の句が石碑として設置されています。

 

鮎の背に 朝日さすなり 田村川

むかしから神域や寺領にある河川域の魚は殺生を禁じられていたため、この流域には鮎が多く生息していたのでしょう。

季語としての鮎は夏ですから、朝日が差し込んできて川面を照らす鮎の背に、蝉の音が繁くなりだした神社の杜の様子が頭に浮かびます。

こんな風に、実際には現代の冬の旅であっても、時空をいとも簡単に跳び越えてしまうところが、旧東海道の旅の魅力です。

もちろん、想像力を働かして俳句を鑑賞する力がないと難しいのですが、そんなものは文学オタクでなくともたくさんの句碑に接しているうちに勘所が分かってきますから、まずは家を出て旅に出ることです。

今までとは一転して鬱蒼とした杉木立の中に入ります。

橋から100m先で十字路に出ます。

交差する道は田村神社の参道です。

ここを右折してすぐ脇の二の鳥居をくぐってゆくと神殿に突き当たり、旧東海道は逆に神社を背に左に曲がって国道前で一の鳥居をくぐる形になります。

実は江戸時代、地元の古いお社である田村神社の参道を旅人たちが通過するのを、村の人たちはこころよく思っていませんでした。

確かに、遥拝どころか一礼もせずにここを曲がったら、地域の人は「おらが神さまに不敬だろう」という気持ちになったと思います。

そのためかどうかは分かりませんが、この神社は厄除けで有名なのだそうです。

要は、「厄落とししていけ、この先で事故に巻き込まれてもしらんぞ」ということなのでしょうか。

(社務所前の広場。ここに自転車をとめてあとは歩きです)

ブロンプトンなら徒歩とは違って時間にゆとりがあるので、本殿に参拝してゆきましょう。

もちろん、いくら舗装されているといっても、参道では脱帽(脱ヘルメット)のうえ下馬、すなわちブロンプトンを押し歩きしないと、江戸時代でなくても不敬にあたります。

どうしても乗ってゆきたいということであれば、西側に並行している車道をいってください。

でも、足が悪いわけでもなく、時間に余裕があるのに参道を歩いてゆかないというのは、異教徒にあたる私でさえ、神道に対して失礼だと感じます。

日本の文化を愛でるというのは、祝詞をあげてもらったり、玉串を納めたりする以前に、そういうことだと思うのですが、ショーファー(Chauffeur)運転の車で某九段坂上の神社に乗り付ける先生たちは、どう考えていらっしゃるのだか。

(警備上の理由もあるのでしょうが、私人として参拝するのなら、気にすることない気がします)

(奥が本殿で手前が厄除け太鼓判じゃなかった橋です)

参道を本殿方面ゆく150mほどで三の鳥居をくぐり、細かい玉砂利の敷き詰められた広場に出て、左側に社務所や祈祷殿が建っています。

かなり立派なもので、大きな神社なのだと分かります。

そのまま直進して拝殿裏へまわると、参道は下り坂になりすぐ先で太鼓橋(34.930754, 136.298990)を渡ります。

この橋は厄落とし太鼓橋と呼ばれ、毎年2月17日から3日間に行われる厄除け大祭の折に、節分の時に残しておいた自分の年の数だけの豆を、橋の上から東を向いて川に落とすと、いかに悪い年でも禍を逃れることができるという、夢の中に現れた祭神の田村大神のお告げからきている言い伝えなのだそうです。

この日はお正月明けということで、その先の一願成就の清め道に弓矢を模したアーチが架かり、本堂前には大きな賽銭箱が備えられていました。

太鼓橋手前の立派な馬神といい、征夷大将軍の坂上田村麻呂を祀っている以上、戦いの神さまという様子です。

坂上田村麻呂は、陸奥の国を平定したとして有名で、同じ名の田村神社が岩手、宮城、秋田、福島など東北各県に複数存在します。

しかし、ここ甲賀市の田村神社の由緒は、神話ではなく実在した可能性のある最初の天皇、垂仁(すいにん)天皇(前29年~70年)の時代に倭姫命を祀ったところからという大変古いものです。

時代はくだり、坂上田村麻呂が鈴鹿峠の悪鬼を掃討したのち、余った矢を放って落ちた場所に、万民の災いをこの矢で防ぐために自分を祀るよう命じ、そこに本殿を建てた後、彼が亡くなった翌年(812年)には、嵯峨天皇の勅命によりこの神社で厄除けの大祈祷が行われ、それから厄除けの神として連綿と続いているのだそうです。

それで弓矢のアーチなんだ。

山梨県にハマイバ丸というへんてこな名前の山があって調べたら、「破魔射場」すなわち山の神事で矢を放つお祭りをする場所という意味で、こうした場所は各地にあると知りました。

三十三間堂でも1月に通し矢という行事がありますが、坂上田村麻呂の行為が破魔矢の起源だったら面白いのに。

鈴鹿峠に元田村神社が存在したのは既述の通りですし、嵯峨天皇を悩ませた兄弟喧嘩の薬子の乱も、先にご紹介した通りですから、この地で大祈祷が行われたのは畿内というか平安京防衛のためにということで、史実なのでしょう。

京の都造営にあたって、嵯峨天皇は風水でいわれる方位を大事にしたということですから、京の都から見てこの場所に、武将としても、清水寺を建立した篤信者としても有名な坂上田村麻呂をここに祀ったのも、都の守り神としての役割を期待してのことでしょう。

まるで徳川家康が死後に江戸幕府を守護するため、江戸城からみて鬼門の方角、というか東北からの攻め入口にあたる日光の地に、東照大権現として祀られている話の元祖バージョンみたいです。

(蟹が坂飴を売る店は、だいぶ雰囲気が変わりました)

こんなところにも、中国の唐と同じく東夷、すなわち東からの敵(中国にとっての東夷とは、まさしく日本のことなのですが)に備えるという思想が見て取れます。

ということは、太平洋戦争の時は米軍が東夷だったのでしょうか。

そういえば、戦中に連合国調伏の大祈祷が横浜の弘明寺で行われ、末期にルーズベルト大統領が癌で亡くなった際には、願いが叶ったとして喜んだ人たちがいたと聞いたことがあります。

すぐ後で原爆が投下されるなど、史実はそんなに甘くは無かったわけですが、彼の死は伊勢神宮を爆撃したことへの神罰だと大新聞が書きたてたのは本当の話です。

このエピソードを考えても、戦前の国家神道は間違っていたと思います。

同時期、ときの鈴木貫太郎首相は米大統領の死を真摯な気持ちで哀悼する談話を残していますから。

そして起源や歴史がどうあれ、地元の人が篤く信仰している対象には、旅人として敬意を払うのは常識です。

どこの宗教であれ、本物の信仰を持っている人は、他の宗教にたいする崇敬を忘れませんから。

(あいくるバスを見るのは珍しい)

さて、十字路に引き返して旧東海道をゆきましょう。

一の鳥居の先で国道1号線を渡る(34.928203, 136.296673)わけですが、歩行者用の歩道橋があるほかは信号や横断歩道がついておりませんので、直線を飛ばしてくる左右の車に注意しながら向こう正面の路地へ入ると、左が前回ご紹介した蟹が坂飴を販売しているたこ焼き屋さん、右側が道の駅土山です。

鈴鹿峠直下の坂下宿も含めて、気軽に食事ができる場所は関からさき殆どありませんから、お昼ご飯がまだでしたらここで食べましょう。

DANさんとの旅の時は、関西本線の関駅を朝8時過ぎに出発し、鈴鹿峠を10時過ぎに越え、この道の駅には11時40分に到着したので、昼食にはちょうど良い時間でした。

冬場は特に、ここから長い土山宿を抜け、つぎの水口宿、石部宿と下り坂ながら、正面から冷たい季節風を受けますから、体力の消耗が激しいのです。

私が良く食べるのはうどんやそばと古代米のおにぎりのセットです。

麺類だけだとどうしてもお腹が空いてしまうので。

なお、土山はお茶の産地としても有名ですから、お腹がいっぱいでも無料で提供される日本茶は飲んで一服してゆくことをお勧めします。

道の駅の前は、甲賀市のコミュニティバスのうち、土山支署管内を網羅する「あいくるバス」のターミナルでもあります。

草津線の貴生川駅方面へ行くバスは1時間に1本で、ここから鈴鹿峠方面へゆくには、別系統の循環バスにここで乗り換えることになります。

「あいくる」というまるで消費者金融のようなネーミングは、「あいの宿土山」から来ているのでしょう。

「愛が来る」でも“I come”でも、オジサンが考えそうな駄洒落です。

その由来は、「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」という鈴鹿馬子唄の冒頭歌詞から来ていることは間違いないのです。

では「あい」の意味とは何なのでしょう。

これには諸説あって、山間、谷間の宿場だから、藍染が盛んだったから、鮎漁が盛んで特産品として有名だったから、間の宿だったから、相対する坂下とは天気が対照的だから、「間もなく」がこの地方の方言で「あいのう」というからなど、沢山あります。

「あいのう」なんて、私は「あいにく」の意味だと解してしまいそうです。

しかし、あいの土山が「愛の土山」でないことだけは確かです。

聖書を読んでいる身としては、あんまり「愛」という言葉をあちこちで容易に使って欲しくはないのですが、地元の人は出合いを大切にしたいという意味を込めているそうです。

ならば尚更、旅人はお店に寄ってゆかないと。

(生里野公園と案内板。ここで旧東海道は南西から北西へと進路を変えます)

道の駅の裏手で旧東海道は右に直角に曲がります(34.927486, 136.295670)。

裏手は公園になっていて、旧道側に土山宿の案内板があるのですが、ここが実際の宿場町の江戸側入口にあたり、2.2㎞先で再び国道1号線を横断する、南土山交差点までが土山宿になるようです。

歩いているときは、自宅から最寄り駅までよりも遠いなんて、ずいぶんと長い宿場町だなと思いました。

実際、徒歩で抜けるのには早歩きでも30分近くかかります。

そしてこの付近を生里野(いくりの)といい、江戸時代の名所図会には、(東海)道中二番目に美味いそばが、生里野そばだと書かれていたそうです。

うーん、道の駅のそばがそんなに美味だったかどうか、覚えていません。

しかし二番目といえば、では一番はどこかという話になります。

家にある「東海道名所図会」を紐解いてみたものの「生里野」という言葉すら見当たりません。

謎です。

次回は道の駅裏手の生里野公園の角から続けたいと思います。