旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(猪鼻集落)

(前回からの続き)

また浄福寺(34.920687, 136.311836)には、忠臣蔵と東海道において詫び証文で話題になった四十七士のひとり、大高源吾の詠んだ歌の石碑が門前にあります。

 

「いの花や 早稲のもまるる 山おろし」

 

彼は俳諧の「子葉」という雅号をもつれっきとした俳人で、その関係から江戸では茶人山田宗偏(やまだ そうへん)の弟子になり、吉良邸で茶会がある日時を突き止めて討ち入り決行日が決まったという経緯があります。

討ち入り後に引き上げた泉岳寺では、知己を得ていた僧侶から求められ、「山をさく 刀もおれて 松の雪」という句を残し、公儀の命による切腹にあたっては、「梅を呑む 茶屋もあるべし 死出の山」と残しています。

本当に山が好きだったのですね、源吾殿。

なんだかその辺の茶店で山を眺めつつ一服している彼が見えてきそうです。

 

浄福寺から5軒はさんで同じく右側にあるのが旅籠の中屋跡です(34.920810, 136.311161)。

ここでは明治天皇が昼食をとったとの聖蹟碑があります。

天皇が遷都の途中で立ち寄ってお昼ご飯を食べるって、名誉なことだったのですね。

今の天皇陛下がお忍びでふらりと旅に出て、ふと立ち寄った食堂でご飯を食べたらお付きの役人たちの責任問題になってしまいます。

実際の旅は無理だとしても、あの人たちは心の旅や観念の冒険である私人としての学問や読書の自由は保障されているのでしょうか。

たとえば、廣松渉に影響されてマルキシズムについて研究したり、井筒俊彦などを読んでイスラームに造詣を深めたりとか、周囲の侍従のみなさんがゆるしてくれるのですかね。

ふとそんなことを思いました。

 

(国道への復帰点。中央分離帯があって、向こう側の歩道にはゆけません)

 

猪鼻集落は国道の側から見ると、江戸方面から来ても、京方面からきても、一旦国道を離れて坂をくだり、ふたたび坂をのぼって国道に復帰せねばならないため、暑い盛りなどつい省略したくなるのですが、この付近の街道筋の様子をよく残しているので、ぜひ立ち寄りましょう。

集落の裏手で、これまで鈴鹿峠よりともに下ってきた山中川が田村川と合流し、名前を変えています。

東西270mほどの猪鼻集落を抜けると、道はつづら折りの上り坂となって国道へと戻ります。

これが猪鼻立場と土山宿の間にあった猪鼻峠の東側の坂です。

国道に出て右折しすぐ峠を越えると、対面の左側に旧東海道の分岐した痕があったそうなのですが、今は完全に消えています。

国道に復帰して460m、坂を下ってゆくと右に旧東海道が分岐しており、その右側には榎島神社があります(34.923414, 136.306072)。

国道お向かいには旧道跡がこちらは残っていて、ここを入って猪鼻村方面へ戻ってゆくと、奥の国道下に蟹塚(34.922156, 136.306697)とよばれる塚があるそうです。

ついでにいえば、この猪鼻峠の西側の坂を、通称で蟹が坂といい、この辺り一帯を蟹が坂村というそうです。

はて、こんな山の中でなぜ蟹が登場するのでしょう。

沢蟹でしょうか。

(旧東海道跡は坂の下で国道を斜めに突っ切ります。蟹塚は写真手前の、未舗装路を猪鼻方面に戻ったところにあります)

 

平安時代の頃、鈴鹿峠で旅人を喰う巨大な蟹がいて、通りかかった恵心僧都(=源信ともいう天台僧)が自ら著した「往生要集」を唱えると、蟹は八つに砕け、彼は砕けた蟹の甲羅に模した飴をつくるよう言い残して去ったという伝説があります。

同じ時代に坂上田村麻呂が鈴鹿山を根城にする山賊を征伐し、討ち取った賊を祀るために榎島神社を建て、これがのちに蟹社と呼ばれたところから、蟹が坂の名がついたという話もあります。

つまり、鈴鹿峠で人を食べる蟹とは、山賊のことなのでしょう。

髭が伸び放題で日に焼けた赤ら顔をしていた山賊は、里人には蟹に見えたのかもしれません。

僧が指示した飴は、蟹坂飴という名前でこの先の田村神社の参道にて売っています。

坂上田村麻呂が鈴鹿峠の山賊を平定したという話は、のちに作話された伝説です。

史実では、平安時代のはじめ(810年)に起きた薬子の変の際に、近江の国の鈴鹿関を閉鎖した記録が残っています。

(榎島神社。江ノ島とも書くそうですが・・・)

(蟹が坂の集落)

薬子の変とは、桓武天皇の子である51代平城天皇が、弟の嵯峨天皇(52代)に譲位したあとに、復権を目論んで都を平城京に戻す旨の詔勅を発し、妃の母、すなわち義母にあたる藤原薬子(ふじわらのくすこ)や、その兄の藤原仲成(ふじわらのなかなり)と組んで東国へ逃れて、挙兵しようとした反乱です。

先手を打った嵯峨天皇が田村麻呂を鈴鹿関に派遣し、上皇らは挙兵を諦めて平城京に引き返し薬子は毒を仰いで自殺、仲成は弓で射殺されて死刑、上皇は剃髪して仏門に入ることで助命、上皇としての立場を保ったそうです。

妃のお母さんとできてしまうというスキャンダルもさることながら、兄弟で平城京と平安京の二つの都に分かれて対立する(二所朝廷)というのもすごいです。

(工場の間をゆく旧東海道)

実は弘法大師空海は唐から戻ったのが806年10月で、半年前の3月に桓武天皇が崩御しています。

彼は2年で留学を切り上げたことが問題視されて、大宰府に留め置かれていましたが、平城天皇が弟に譲位して嵯峨天皇が即位したのにあわせて、809年7月に入京し、高雄山寺(いまの神護寺)に入って灌頂と呼ばれる密教の儀式を行いました。

そして、翌年に起きた薬子の変の際に、嵯峨天皇のために坂上田村麻呂が勝利するよう大祈祷を行ってから、天皇は密教の庇護者、個人的には空海がカウンセラーなら、天皇はクライアントみたいな関係になってゆきます。

(左が蟹が坂古戦場跡碑)

(田畑の向こうに見える森が田村神社)

さて、榎島神社から400m西へ下ると旧東海道は金属加工工場の中を突っ切ります。

工場の間を抜けると、右側に道路竣工記念碑とともに、蟹が坂古戦場跡碑(34.926836, 136.301724)を認めます。

1542年、伊勢の国司北畠具教(きたばたけ とものり)が近江に侵攻した際、ときの山中城主山中秀国は、近江の守護六角氏の援軍も得ながら、見事に北畠軍を撃退したその跡地です。

北畠具教もまた、織田信長に領地の伊勢の国を攻められ、いったんは降伏したものの裏で信長の敵対勢力を煽るなどしていたため、織田信長、信雄の命を受けた家臣により、子どもや側近共々殺害されてしまいます。

一方の山中氏は、織田氏、次いで豊臣秀吉に仕えたものの、命じられた紀ノ川の堤防工事が遅れたために(甲賀破議)荘園を取り上げられて以降この山中村に郷士として暮らすことになります。

(神社へと続く田村橋)

古戦場の先、最初は田んぼ、次に茶畑のなかの道を西へ向かうと、正面に神社の森がみえてきます。

およそ340mで田村川に架かる田村橋(34.928466, 136.298782)を渡ります。

この橋の先は、田村神社の神域ですので、車は渡れません。

橋の上からみる清流は、とても澄んでいました。

次回は、ここ田村神社から土山宿のなかに入ってゆきたいとおもいます。

(田村橋上より上流方面を望む)