旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

ある週末の仕事帰りの夕暮れ、代官山を通りかかりました。
いつもは朝にくる場所で、夕方の顔を滅多に見ることがありません。
こうして改めてみると、さすが代官山です。
早朝は閉まっている店も営業していて、大勢の人たちでにぎわっていました。
昔は代官山というと閑静な住宅街で、お店は殆どなくて、昼食なんかどこで食べたらいいか途方に暮れるような場所でした。
上り電車が駅を出ると、踏み切り(現在は渋谷駅地下化工事につき廃止済み)脇にカルピスの本社があって、あの差別表現とされて廃止されたロゴマークが車窓から大きく見えていました。

そのすぐ上には、有名子役がたくさん集う劇団がありました。
山手線上のガードをまたいで直角にカーブして渋谷駅へ向かう手前、代官山の谷間を走る電車からは、高級マンションも見えたけれど、かなり年代の古い木賃アパートも多く見られました。
時代は変わったものです。


何かで聞いたことがありますが、山手線から郊外へ放射状に広がり、かつ地上を走る私鉄沿線のうち、ターミナル駅の次の駅というのは、繁栄しにくいという法則があるそうです。
どんな駅があるかなと思い返してみます。
品川に対しての京急本線北品川駅、大崎駅に対しての東急池上線大崎広小路駅、目黒駅に対しての東急目黒線不動前駅、そして渋谷駅に対しては代官山のほかに京王井の頭線の神泉駅、新宿駅は小田急線の南新宿駅、京王線の初台駅、そして西武新宿駅に対して西武新宿線の下落合駅、池袋駅に対しての西武池袋線南長崎駅と東武東上線北池袋駅、最後に上野駅に対する京成本線の新三河島駅(かつては博物館動物園前駅)です。
なるほど、こうして並べてみるとどの駅も地味でいまひとつパッとしません。
この中でかつての代官山駅に近いのは南新宿駅かもしれません。
代官山の昔は今よりも雑然としていましたから。


さてそんな代官山の旧山手通りを走っていると、ふと東横線シリーズで夏に訪れた朝倉邸のことが頭をよぎりました。
あそこのお庭はモミジがたくさんあったから、今いったら美しいだろうなと。
入館料は100円ですし、立ち寄ってみました。
もう閉館まで1時間を切っていましたが、お庭に直行すると紅く染まったモミジの木々の先に、ちょうど真っ赤な夕日が沈むところでした。
この光景をみて真っ先に頭に思い浮かんだのは、唱歌の「もみじ」です。

秋の夕日に 照る山紅葉(やまもみじ)
濃いも薄いも 数あるなかに
松を彩る 楓や蔦は 山のふもとの裾模様



作詞は高野辰之、作曲は岡野貞一という、「ふるさと」「朧月夜」「春が来た」「春の小川」など、日本人なら誰もが知っている唱歌を量産したコンビです。
小学生の頃に「やまもみじ」を「はげあたま」に変えて歌ったのはご愛敬として、このお庭、秋の夕暮れに訪れると「もみじ」の歌のままです。
だって松もあって、もみじも木によって、或いは枝によって赤くなっている部分と緑のままの部分があって、引いて眺めると水の上でなくても「織る錦」にみえます。
歌詞を思い出してみましょう。
1番はどちらかというと紅葉の山々を遠望した場面を歌った歌詞ですが、こうして目黒川左岸の崖線上から富士山の方角を見るとぴったりです。
2番が「渓(たに)の流れに」と続きますが、朝倉邸のお庭は南向きの斜面にあるだけに、水を渓流のように落とす仕掛けがあります。
家屋裏手の尾根上、すなわち旧山手通り沿いには玉川上水の支線である三田用水が走っているのです。


上水というのは、尾根のてっぺんを流れていて、そういう意味では最低地を流れる河川とはあべこべですが、そこから両側の低地に向かって水を落とすことで斜面の耕作地に水を供給する仕組みで、灌漑用水の一種です。
玉川上水を辿ると分かりますが、羽村で取水された水は武蔵野台地の一番高い場所、すなわち分水嶺を西から東に流れ、中流域では南は野川や仙川の左岸(北岸)斜面、北は黒目川や石神井川の右岸(南岸)斜面に向かって水を落としてゆくのです。
以前ブロンプトンで遡った神田川も、源流の井の頭公園にある井の頭池は、武蔵野台地の伏流水のほかに、玉川上水から分水された水が混じっているといいます。


また、上水は斜面下に向かって水を流すだけではなく、支脈の尾根があればそちらへ分水します。
ですから本流のほかに千川分水とか、三田用水とか、下流に行くにつれて木の枝のように支線が尾根上に分かれてゆくのです。
上水が整備されていたから江戸は当時世界屈指のメガポリスだったといいますが、その後背地である多摩川と利根川(荒川)に挟まれた武蔵野台地に用水を張り巡らせることができたからこそ、それだけの人口を養う農産物が生産できたともいえます。


そして、三田用水は笹塚と幡ヶ谷の間で玉川上水が大きく南に蛇行する地点から分水し、渋谷川と目黒川に挟まれた尾根の上を、高輪台に向かって東進します。
今は廃止されてもちろん通水していませんが、朝倉邸よりやや北にある西郷山公園脇の西郷橋は水道橋でもあったのです。
崖線下へ落とす水は、灌漑用水としてだけではなく、水車の動力や工業用水にも利用されていたそうです。
朝倉邸の主人だった朝倉虎治郎の父、徳次郎は精米業で財をなした人でしたから、こうした用水を庭園に利用することも思いつきやすかったのかもしれません。


もうひとつ、沈んでゆく夕陽をみていたら、ふと1980年のことが頭に浮かびました。
まだ携帯電話もパソコンもなかった時代です。
その頃は冷戦構造真っ只中で、アメリカや日本をはじめとする西側諸国が、前々年に起きたソビエトのアフガニスタン侵攻に抗議してモスクワオリンピックをボイコットし、ジョン・レノンが亡くなった年でもありました。
こちらもやはり歌です。


それは、紙ふうせんの「夕陽よ沈まないで」
こちらの歌はご存知の方が少ないでしょう。
紙ふうせんは、「翼をください」で有名なフォークグループの赤い鳥から分離したデュオで、この歌はその年に家庭内暴力を扱ったNHKのドラマ人間模様シリーズ、「愛を病む」という作品の主題歌でした。
有名な「積木くずし」よりも3年も前の放映です。
当時は中高生による校内暴力や家庭内暴力が社会問題化していまして、私も該当世代だったのでよく記憶しています。
ちょうどその年頃になると、自分が何者かが分からなくなるのと同時に、大人の欺瞞が透けて見えるようになり、その鬱憤が外への暴力に向かうのはままあることでした。
今も暴力という形をとらなくても、そういうことはあるのではないでしょうか。
確か、歌詞はこんな感じでした。


夕陽よ 沈まないで 私をひとりにさせないで
愛する友だちの 名前をあなたに 伝えたい
幼いころの夕焼けは 少女の頬を熱く染めて
季節の花の髪飾り 指きりげんまん また明日

なんだか意味が分からない歌詞ですよね。
実はこれ、ドラマ用に主役にあわせてアレンジされた歌詞で、本当の歌詞は別にありました。

夕陽よ 沈まないで 私をひとりにさせないで
冷たい 長い夜が 孤独の世界へ誘うから
なくした愛にすがるとき 眠れぬ夜は長すぎて
しあわせすぎたあの頃は 気づかぬままに 過ぎ去った


こちらの方が、家庭内で暴力をふるったり、家出を繰り返して深夜徘徊したりするあの年代の子たちの気持ちを代弁しているような気がするのですが。
いまで云うところの「見捨てられ不安」というやつですね。
そのドラマの結末は、主役の少女が学校をやめて親とともにお遍路に出るという内容で、文学少年だった私でさえ、「砂の器」じゃあるまいしとのけ反ったのを覚えています。


というのも、同じ年に公開された洋画、“Fame”を見て、作中の挿入歌のゴスペル“Never Alone”を聴き、フォークとポップスの違いこそあれど、「どうして日米の青春ってこうも違うの?」とショックを受けたのです。
そちらの歌詞は、「神さまはあなたを決してひとりぼっちにはしません」という意味でしたから。

 

当時キリスト教を信仰していたわけではありませんが、「愛」という言葉の意味が、根本から違うと感じたのです。
学校で英語が好きだった私は、翌年親に頼み込んで1か月アメリカ中西部の農家にホームスティさせてもらい、帰ってきたら本音と建て前を使い分けて大人ぶる日本の文化がえらく陳腐に感じたのでした。
もちろん、アメリカはアメリカで色々問題を抱えていることは承知のうえで。
あのとき、はじめて「よその国の人たちを日本の物差しで測ってはならない」ということを知り、大学生になったらバックパッカーになって、あちこちを観察してやると思ったものです。


1980年は、東京も今みたいに高層ビルや高層マンションが殆どありませんでしたから、街のどこからでもこのような夕陽をながめることができました。
こうして夕焼けをみると40年近くも昔のことを思い出すのは、自分が歳をとったせいでしょうか。
しかしあの頃もこうして秋から冬にかけて夕陽をみていると、人が生きるということはどういうことなのかと、その年齢なりに考えていました。
あれは、ひとつの招きだったのだといまは思います。
そしてわけ知り顔で悟ったような口を利き、知ったかぶりをする大人ではなく、この歳になっても迷いながら歩き続けていられることに感謝だと感じました。