朝日が昇るから起きるんじゃなくて | LIKE A ROLLING CUISiNE

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運命を拓く✨偏屈料理人のブログ
印象派の画家達に憧れ単身パリへ。しかしこんなはずではなかった!?様々な人との出会いと別れ。苦悩と喜びの日々と自身の料理哲学を綴る物語。
誰もが幸せになれないなら僕は料理を作り続けよう


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朝日が昇るから起きるんじゃなくて


次の朝に近づいていっただけさ。

そういう車窓を切り取った一枚。

ふわふわした浮ついた気持ちと安堵感。
夜から逃げ出すように帰阪している。

いいものを作り切った余韻があった。
上手くいくかいかないかは正直綱渡りみたいな部分もある。僕は食材を信じすぎる。

だから今回は任せた。託す。ある程度。

対食材に絶対的に頼らない。
でもリスペクトはしている。
日本語で言うと尊重するのほうがしっくりくる気がするよね。

それが今の自分の調理法には1番合っていたのかもしれない。常に自問自答していたから。
時間が欲しかったから時間に投資した。
レストランシーンからは降りる。
もう不要だろうそんな毎日もトレーニングも。
何か2018年、形が欲しかった。
前回うまく料理ができなかったのはそういったものがネガティブな要素を作っていたから。

これがYamato Imanishiの料理だというのは僕が思っている以上に料理を運んでくれる彼らが。
食べてくれるお客様が分かっていてくれていた。
そこに向かって味を、盛り付けを、香りを...
ただ持っていくだけでよかったのだ。

自分らしくは。
構えずに普通にやるということ。

野菜料理はどちらかというと得意。
自分のスタイル的に双方の良さを出しやすい。
それは野菜という食材がそもそもが味わいもビジュアルも調理する前から完成されているからだ。
切る必要も焼く必要も塩を振る必要もない野菜なんて星の数ほどあるだろう。
しかし、料理人たちは手を加え、自分のエゴの中へ自然な状態から連れ出す。もうホントやめてくれ、バカなんじゃないかと野菜は思う。
本来あるべき姿はそのまま。
究極的にはそこなんだろうと。
それを何もしないという理屈でやれるかどうか。
手を加え過ぎるのが料理でもない。分解や再構築することに美を感じないのは僕だけか。
画家が裸体を描くのも多分は同じような感覚になるのかと思える。

なんでもかんでもモンクレールのダウンを着せればいいというもんでもない。
きれいな女性はそれだけで美しい。
化粧をしなくても、高いバッグを持たなくとも。
日本人は変なところにコンプレックスを抱き過ぎる。敗戦国だから。植民地だから。今日も街で中国人の圧に屈している日本人を見るだろう。民主主義故の数に弱いやつか。仕事は綺麗で丁寧で勤勉ですごくできるのに秩序を守り過ぎる。
味わいの中やビジュアルにもそれを求めていて、素材の個性が。とかいう割に協調性を気にしていてオーケストラ風の味わいになるケースが多い。
ハーモニーとかって言うよね。なにそれ。
で、素材の個性ってどこなの?という料理と出会うことは少なくないだろう。
何より協調性が重視される世の中なのだ。

料理人って本来は経験上、普通の人がなる職業なんです。クラスの人気者やリーダー的存在みたいな人がなるものではなく、いじめられてたとか変な性癖を持っていたりとか何らかの精神的な病に蝕まれていたり。他人に言えないような過去を抱えているような人が大多数を占めるはずだ。
水商売と言われる所以はそういう所。
その一種の後ろめたさや恥ずかしさを料理という表現活動で勘弁してくださいという感じではないだろうか。僕はそう思う。


今回のイベントを象徴する料理はこれ

「菊芋のポタージュ 海辺のかおり」

今回使う野菜たちがイベント前日にForetFarmのしんさんから届いた。少しずつ野菜を齧っていくと、その時点では味があるのだが調理していくとまったく旨味が欠けていることになった。
加熱して失う味があまりにも多すぎる。
甘みや酸味やえぐみまでも、風味という風味が水蒸気とともに煙になってダクトに吸い込まれる。
野菜にも色々なタイプや性格があって料理人の接し方でゴールはきっと変わってくるんです。
もちろん加熱することで甘みが乗ってくる、香りが立ってくる。そういうタイプの野菜もあります。それは同じ人参であったとしてもです。
ワインも同じ樽でも底のほうと上のほうでは味が違う。人間と同じような部分もある。オカルト的な話をすると気とか宇宙とかの話にまで言及するだろう。要はその素材をリスペクトしてきちんと向き合う、調理するにあたって自分でまず味わう。そこには単なる食材や調味料の組み合わせだけで生まれる浅はかな風味や旨みには代え難い滋味深いものがあるのだから。

僕のポタージュは普通に作る。
動物性のブイヨンも使わない。
水と牛乳。火加減とバターの量を調整すれば生クリームも必要はない。後は塩をどの段階で加えて味を引き出していくのか。

しんさんの野菜は土の風味が強かった。
根菜は特にそういったイメージだった。
じゃがいもも甘いというよりは青いニュアンスが結構強めに出ていて生命力や土地のパワーがより濃く表れていた。どうにかマイルドに、野菜の甘みや穏やかな風味がこの強い風味と平行するラインまで持っていきたい。そのままを出すのではなく味わいを整える必要性があった。調理するというのはそういうことです。

今回は寝かせるという行程を多くの料理に行った。どの状態で寝かせるのかも重要で、その時の塩分量や火の入れ具合や煮詰め具合など。
寝かせることで欲しい味わいを狙い引き出す。

まだ寒くなりきっていないため、この時期の野菜は甘みが足りてないようだ。玉ねぎを若干量多めに使い不足分を補う。ポロねぎやセロリなんかを入れても美味しくなるのだけど、僕には水と牛乳というストレート系しか組み立てがないため余計なものは省く。脇も数を減らせば主食材の存在はぐっと引き立つ。何を食べているのか分かりやすい味にはなる。この場合の玉ねぎの炒め具合も重要で、ここだという所で菊芋を投入しないといけない。何の野菜を使うのかによって飴色まで炒めるのか、さっと炒めるのか変わってくる。
日本のフランス料理の教科書には汗をかかせるように炒める(シュエ)と書いてあるのだが想像力が乏しい。僕はそういう所だと思うんです。
汗って...。美味しそうかい?なんかそういう美しくない表現がすべてを駄目にしている。フランス人がそんなBADな表現するのかな。ポールだったらヤマト、汗って言わないほうがいいよ。と耳元で僕に囁くように後で優しくフォローしてくれるやろ。僕に凄まじい語学力でもあれば料理書の翻訳とかやりたいなと思いますもん。だから大概の料理人は汗をかかせてじっくり炒めるんです。そこについて深く考えることもなく。僕は修行時代に炒め過ぎだと叱られたかった(M気質です)。99%もっと炒めろとシェフやめんどくさい先輩に怒られるわけです。汗だくの玉ねぎがイケメンと認知されてるわけなんで。炒め過ぎだと言われてはっとなりたいじゃないですか。これじゃアカンのですか!?シェフ!シェフぅ〜〜。ってなりたいじゃないですか。この人に付いて行ったら間違いないってなるじゃないですか。そら離職率も下がりますよ。日本の料理人の叱られる項目は箇条書きですべて出尽くしてる。人間的な教育はまた別としてですよ。皆んな料理したいわけですから。料理の叱られ方にも魅力がないと。料理ってこんなに奥が深いんやと思わせないと。給料低いんやったらそのへん考えないと資本のある所に人財は根こそぎやられてしまう。まだ開花する前から。ゆとり世代とか平成生まれとか、そういうパラダイムで見る前に伝え方をまず疑うべきだ。そこなのでしょう問題は。
皆んなが皆んな同じ叱られ方をしたらこの国の料理界の末路は見えてるじゃないですか。
スポーツは育成年代の強化に投資するわけでしょ。東京オリンピックもあるからね。料理雑誌も特集記事が弱い。シェフの本棚拝見とかよりシェフの夜遊び特集とか見たいよね普通。頭でっかちな料理人ばかり増やしても意味ないって。1万円でこんな店をハシゴしてこんなカッコいいオーダーをします。みたいな若者がおぉっ!となるようなやつにしようよ。安い給料で本なんか買う余裕ないよ現代の子は。料理人じゃない人も見たいやんそんな雑誌なら。
読書なんかスマホでやる時代やし。

で。
ポタージュです。

菊芋を菊芋らしくやるために。
僕が僕であるために。
やり続けなきゃならない。
まぁちょっと主観や自分のイメージはありきで。ここまでの仕込みの中で加熱で風味やコクを損ないがちなのを理解していたので、少しでも菊芋ぽさを残していくために皮付きで調理します。
まぁだいたいがそうだとは思います。
栽培か土か気温とか環境面なのか、この日の野菜はそういった味と特性を持っていたので素直にやります。塩は2回振る。玉ねぎへの塩と菊芋への塩。香りを効果的に引き出すには菊芋をある程度炒めてから塩をするとちょうどいい具合。
オーブンでもあれば菊芋をローストしたり、藁で香りをつけたり、塩竈で蒸したり等...。色々な角度から攻めることもできるけど細かいテクニックは無しでストレート勝負。潔く炒めて、ここという所で塩をして、煮る。気が重要。
ナイス自分!というファインプレーとベストをこの行程の中でいくつ出せるか。

そして、ポタージュは一晩寝かせます。
鍋の中で氷とかは当てずに静かにゆっくりそのまま冷まして朝まで待ってやります。
味はほとんどしないです。野菜から適量の水分を出させるだけに打った塩だけ。
ミキサーはかけずに野菜はそれぞれ個体で液体に浮遊させて放置プレイ。この時点では野菜と液体は別々のものにしておいて後で合わせます。僕のヴルーテやクーリーはそういうやり方。もちろん寝かす必要がない場合もあります。季節感や今日採れたという風味を出したい場合は浅い炒め具合や煮込み具合で生野菜のフレーバーを優先的に残して行く。元々持っている野菜のどんな味や風味を残していくのか。その時点では潜在的で塩や加熱などにより引き出し足していくことのできる味わいや風味もある。または現代的にやるなら調味料や異なる食材をぶつけて核反応を起こさせて新しく生まれる味わいや風味もある。時に爆発的な旨みを引き起こしたり、失敗するケースもある。前衛的なレストランは毎日こういう掛け算や数式を因数分解するような仕事をしている。これが料理の計算式。足し算、引き算、掛け算による最終的なイコールを求めるもの。終わりのイメージからやっても式は解ける。

5年前パリから帰ってきたとき。僕は掛け算の数式ばかりを悩み考えてた。それはいかにシンプルに簡単に組み合わせだけで大きなダイナミズムを生み出せるかを。現代的なビジネスと同じく、少ない労力(手間)でいかに効果的で大きな利益(旨さ、美味しさ)を出せるかどうかという部分に。

仕事においてはスピード狂。
いかに早く手際よくやるかが好きだった。
早いほどアガるし仕事量が多いほど燃えるし。
それが外人とバチバチやるなんてシュチュエーションだったらそれは最高でしょう。

でもスピードの果てには何もなかった。
本当のところのクリエイティブも美しさも。
掛け算の料理はその瞬間、瞬間では驚きや発見やときには艶もあるけど。旨いと唸らせることができたとしても感動に持っていくまでには至らない味わいなのだ。

料理ははっきりいって人間性は関係ありません。
僕の経験上は99%そう思います。
クソやろうみたいな奴でも人が涙するくらい美味しいものを作れます。必要なのは単純にセンスだけです。人間性とか人の良さが味に滲み出てるとかいうのは嘘です。本物の天才を食したことがあるのか??そんなこと言ってるジャーナリストや評論家はもうやめたほうがいい。君たちの記事では何も生み出さないだろう。99%センスであとの1%に人間性とか努力とかそういうものが含まれる。ボルドーワインにメルロ99%にカベルネフラン1%入ってて1000人中何人がカベルネフラン1%わかるかって話。犬並みじゃないと無理やん。でないと皆んながスーパーシェフになっちゃう。ただシェフになるとスタッフも統率しないといけないし、カリスマ性もいる。様々な能力は必要だったりするけれど、単純に料理を作ることだけに関しては絶対的にセンスです。
実際にそういう絶対に埋められないような部分を海外でたくさん体験してきました。
埋めようがないものを無理に埋めなくてもいい。足し算と引き算だけでいい。
自分自身が料理を通して幸せになること。
何より心から楽しめることが大事だと。
そうポジティブに捉えるしかないのだった。
本当にすべてに負けた気がして泣いた。
パリから帰ってくる飛行機でずっと泣いた。
それくらい天才とちょっとできる人には絶望するくらいの差があります。だから自身の料理の終着点を皆んなが探し、見に行くんです。
それは1人1人が違うものだし、それこそがピュアですべてが交わる究極の世界なのです。誰も入れないし誰からも見られることもない。自分だけのエゴの世界。そんなものを食べたければ是非どうぞ。

翌日ポタージュはクライマックスを迎える。
結局前回みたいに当日までの閃きに頼っていた。ポタージュの中に何か入れようとはイメージしていた。菊芋は風味の中に海っぽい要素を以前から感じていたのでそうする方向性で。牡蠣や昆布や海老...なんかパンチが足りない。
うーん。うーん。うーん。
ポンと閃いたのが海苔。そう。そう。
あーこれか。ニヤリとなります。
口の中ではエアお好み焼きの味がしています。
スーパーをうろうろして行き着いたのが青のりと魚粉でした。実にしっくりきた。瀬戸内っぽくていいな。広島優勝!

青のりと魚粉は混ぜずに2層にしてスプーンですくう度に味が変わるように工夫した。
お好み焼きというよりは菊芋の味や風味が合わさって磯辺揚げのような味になる。
一晩寝かせたポタージュをミキサーで撹拌してひと口味を見た。昨日まで無かった旨みがぐっと引き出されて余韻の長さはヨーロッパの野菜みたいだった。

後はゴールを決めるだけ。
最後の一振りの塩が肝心。
作業中この一瞬だけは本当に音が聞こえなくなったり、頭の中が静かになったり。集中します。
僕は「美味しいの寸止め」という持論があるのですが、美味し過ぎないことが大切だと思っています。美味しい!よりもあ!美味しい!を狙う。
隙のない緊張感のある味わいは嫌いだ。必ず食べ手が入り込む余白を作ることが大切で100点満点を狙うよりも97点を狙う。なので仕込みの段階では仕上げ切らずに最後の一振りの塩を余らせておくようにしている。

これは一皿ずつ。毎回やる。
だから微妙に味は違うはず。
でもそれが料理だしライブ感だと思っている。
毎回味見はするし、お客さんに任せるということはしない。料理人は必ずイニシアチブをこちらで取らないといけない。それがもてなすということだと思っているし、この時、この場、この瞬間。
同じものを共有することが大切。
それは味においてもそうだと言える。
毎回、毎回、ポタージュに塩を決める行為がお客さんに対しての気配りと感謝の気持ち。そして料理人としての心の在り方とプライドです。

寸止めた菊芋のポタージュはどうだっただろうか。僕は今でも後味が口の中でするかのように覚えています。そういう風に作ったつもりです。
ふいに思い出してもらえるような味わい、料理をこれからも作っていきたいのです。

最後になったけど、
今年一年ここ数年では1番料理と素直に向き合ったのではないかと思う。子供もできて、所帯も持って作風は変わったかもしれない。昔みたいな攻める料理は作れなくなった。
でも、シンプルを磨き、自分が追い求めている。イメージしているものへ行きつきたい。
その方向性はだんだん見えてきた。

月に一度こうやって料理を作る機会を与えてくれたチームFarmanicと足を運んでくれるお客さんには本当に感謝しているし、とても満足している。
毎回1ヶ月かけてメニューや構成を練ってアイデアや思っていることをアウトプットできることにとても幸せを感じています。何より初めての土地で知らないお客さんに料理を作ることがどれほどエキサイティングなことか。

今日もいいことがありますように。
電車の中で僕はそう思った。


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