「人のこころに寄り添う仕事」という生き方…その2 | 今日も、犬とベッドシェア

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おじいちゃんのパピヨンさんと暮らす、ソロ活&おひとり様人生エンジョイ中な私の雑記帳
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…I am looking for empty 空っぽの「私」を探して
まるで、空気のような…そんな人でした。


29年分、64枚にわたる生育歴のレポートを渡しているのですが…相変わらず話題の中心は「○○先生との事」が多いです、これが整理出来ないと先に進めないみたいです。

前回「どんな人だったか?」と聞かれてすぐに思い出すことが出来なかったけど、3週間開いたことや3年分の思い出をまとめることによって少しづつ思い出してきたというか、新しい解釈が出てきました。


7年も忘れられない割には、第一印象ってほとんど記憶に残ってないんですよね…見た目が怖いことくらいか?


かなりの時間を一緒に過ごしてきたが、今思うと「存在感」を感じることはあまりなかったな。

例えるなら「空気のような」人でした、本当に影が薄いというか?存在感が無い。

気が付くとそこにいるような、ずっとそこにいるのに誰かが気が付くまでその存在に気付かない…そんな人でした。

決してけなしているわけでは無いのです、昨日そんな話をしたら「それはとても大事な事なんだよ」と言われました。


人のこころに寄り添う時、寄り添う側は自身の感情を表に出すことはまずしないそうです。

そうすることで相手の気持ちにスッと入り込み、その人と一体化することでその人のこころを解き放って行くのです。


だから、自身の存在感まで限りなく消せる人ってすごいことなんだって…私が今でも怖がっている副院長が彼をとても評価していたのはその「存在感の薄さ」や本人の持っている「空気感」が理由だったのかも?


彼は自身の感情はおろか、表情もほとんど表に出さない人でした、それは仕事上だからではなく普段からそういうタイプなのだろう、おそらく彼は自身の存在感を極力出さないようになるべく目立たないようにそれまで生きてきたのだと推測する。


なぜ、そう思うのか?それは私に似ているところがあると思ったから、かつての…今の私も出来るだけひっそりと、なるべく目立たないように人生を「演劇の舞台」だとするならば、あえて「脇役」ばかりを演じ続ける役者のようだ。

そういう人たちは主役になれないのではなく、あえて主役にならないのではないのでしょうか?


何も目立つだけが人生じゃないと思います、最近はやたら「声の大きい人」ばかりがもてはやされている風潮がありますが、こんな風に人に寄り添いながら生きるというのも決して悪い事ではないと思います。




冒頭の画像は最後のメッセージ を書いてもらったポストカードの表面、このブログのデザインもこれの影響が強いかもしれません。



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