ギヨーム・デュファイ Ave Maris Stella 清澄な響き 真摯な祈りの声 | クラシック音楽と読書の日記 クリスタルウインド

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クラシック音楽を中心にした好きな音楽と読書感想、日々の雑感などを思いつくまま気まぐれに書き綴ります

 

文学、美術、建築など、いわゆるルネサンス文化のほとんどは、まずイタリアから始まりました。

しかし、何故かルネサンス音楽の発祥はイタリアではありませんでした。(と言うか、そこに中心的に携わったのはイタリア人ではありませんでした。) イタリアが音楽の本場、と言うにふさわしい状態になるのはルネサンス音楽が創始されてからさらに百年以上後のことになります。その間西洋世界に数多くの優れた音楽家を送り続けたのはフランドル地方(ブルゴーニュ公国)でした。

 

ルネサンス音楽の歴史に最初の足跡を記したのはギヨーム・デュファイです。

 

ギヨーム・デュファイ(またはデュフェ、Guillaume du Fay、1397年8月5日 - 1474年11月27日)はルネサンス期のブルゴーニュ楽派の音楽家である。「ギヨーム・デュ・ファイ」(またはデュ・フェ、Guillaume Du Fay、Du Fayt) とも表記される。音楽の形式および精神の点で、中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換を行なった音楽史上の巨匠である。
最近の説では、ブリュッセル近郊のベーアセル(Beersel)で1397年8月5日に生まれたと考えられている。1409年から1412年まで、少年合唱隊で教育を受け、才能を認められる。1414年、カンブレ近郊のSt.Géry(サンジェリー)教会で働きはじめる。1414年から18年までコンスタンツ公会議に同行し、1418年にカンブレに戻り副助祭となる。同年、イタリアのリミニ宮廷に移り本格的な作曲を始める。1424年に、カンブレに戻り、ラン大聖堂で副助祭であったと考えられている。1426年、イタリアのボローニャに移動し、1428年には司祭となる。その後、1433年までローマで教皇庁の歌手となる。1433年、サヴォワに移動し、ブルゴーニュ公やジル・バンショワと会う。1435年に再び教皇庁の歌手になるが、1436年サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ大聖堂)の献堂式のために「ばらの花が咲頃」という曲を作っている。1437年に再びサヴォワに移動し、ブルゴーニュ公に仕え、その後、サヴォアとカンブレの間を行き来する。
1459年、カンブレに戻り、オケゲム、ビュノワと親交を持つほか、ジョスカン・デ・プレらとも接触したと考えられる。1474年11月27日没。」(Wikipedia ギヨーム・デュファイ より)

(カンブレはフランス北東部、ベルギーとの国境近くに位置する街。カンブレの大聖堂は17世紀に至るまでヨーロッパにおける音楽の中心地で、ネーデルラントのもっとも活発的な音楽活動基盤の一つであった。特に大聖堂の合唱隊はヨーロッパ随一ともされ、ブルゴーニュ楽派の多くの作曲家が、この地で若年期を過ごしながら音楽教育を受け、また後に教師としてこの地を訪れている。)

デュファイは少年時代教会の合唱隊で教育を受けその後はイタリアで聖職者としての道を歩みました。その間ローマ教皇庁聖歌隊の歌手も勤め音楽家としての名をあげました。イタリア各地の教会や貴族の宮廷で作曲も手がけ多くの作品を残しています。フランスの伝統的なポリフォニー音楽、英仏百年戦争の休戦期にジョン・ダンスタブルらから伝えられたイングランド音楽の和声、イタリアのトレチェント音楽の豊かな旋律などを統合しルネサンス音楽の創始者と目される存在となりました。先頃無くなった古楽の研究者として有名な皆川達夫氏はその著書の中で「彼ギヨーム・デュファイは、中世のもろもろの音楽技法の総合者であり、同時に新しいルネサンス音楽の開拓者であった。」(中世・ルネサンスの音楽)とし、後の時代のモンテヴェルディやバッハに匹敵する巨人的スケールの作曲家、と評価しています。

 

 

ルネサンス音楽の清澄な響き。

教会の深い響きに包まれて現れる音楽は真摯な祈りの声のようです。

 

目の前に教会の映像が浮かび上がるような気がします。

心が洗われるようでいつまでも聴き飽きる事なくそこに佇みたくなりました。