モーセは、元々はイスラエル人であったがエジプトの王パロの娘に引き取られて王女の息子となる。
しかし成長した彼は当時、エジプトの奴隷となっていたイスラエル人に対して同情し、彼らを酷使するエジプト人を殺してしまう。王であるパロを恐れてエジプトを去り、遠いミデヤンの地で一人の祭司の下に身を寄せ、羊飼いとなって生きていた彼にある日、神である主の御使いが現われて「主が、イスラエル人をエジプトから解放して約束の地に向かわせる。」と彼に伝えられる。
これに対して動揺を隠すことのできないモーセ。「お前がわたしとともにエジプトへ行き、そしてイスラエル人を解放するのだ!」と強く語られる主に対し、自身尻込みしてしまう。しかしなおも神であられる主は「イスラエル人の兄弟であるアロンをあなたにあてがう」と語られて、彼の負担を軽くしようとされた。
こうして、血の繋がりのある兄アロンとともにエジプトの王パロの前に立ったモーセ。
神なる主によるしるしと奇跡によって、二人はイスラエル人を奴隷から解放し、約束の地に向かって出発する。
さあ、このように神なる主の御心によってイスラエル人たちを約束の地に向かって導き始めたモーセでありましたが、彼は当時年齢が80歳、兄のアロンは83歳だったのです!(これは聖書に記録されてあります)
『エジプトの王女に引き取られる過程』を知っている、彼の家族の一員である兄アロンは別としても、当時のイスラエル人にとってモーセはどんな存在だったのでしょう?
かつてはエジプトの王パロの下にいた彼。
自ら問題を起こして国を追放されていた彼。
その彼が、今度は「自分はイスラエル人だ」と言って自分たちを導くためにやってきた、と言うのです。
そのモーセと他のイスラエル人との間にあったのは、偉大なるしるしと奇跡をもって「あなたがたを救う」と約束をしてくださっている神ご自身でした。これ以外には、何もないのです。
しかし、この強力な神さまの御心に従って、彼らはなんと四十年もかけて約束の地に向かって進み続け、この先も成長して偉大な民となってゆくのです。
さて、話は現在に移ります。
今は、一人一人が手に聖書を持ち、自由に神さまの御言葉を読んでその真実に沿って自らが祈ることができる時代になっています。
先の出来事も全て、この聖書に記録として書き残されているのです。
それでは、この聖書はただ過去の出来事を書き記しているに過ぎないのでしょうか?
そうではありません。
聖書はこのイスラエルという国の人々が何度も何度も身の回りの富や誘惑に気を奪われて、真実なる神さまの御言葉から離れて行ってしまうのを、神さまご自身が彼らを叱りながらその度に立ち返らせ、そうして立ち返る度にご自身の喜びの霊によって子として満たしてくださること
が記されてあるのです。
そして、その神さまの愛は「今も変わらない!」と保証しているのが、聖書なのです!
今日、そして私は、この神さまの愛に、再び自分自身を賭けようとしているのです。アーメン!
