人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(聖書)
『心に信じること』は、その人とその人を造られた主なる神にしか解り得ないことです。
私たちは、そのように神を信じる人たちに寄り添うために何ができるでしょうか?
神は言われます。
主はあなたに告げられた。
人よ。何が良いことなのか。
主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
へりくだって
あなたの神とともに歩むことではないか。(旧約聖書:ミカ書6章8節)
ボクたちの仕事としている『老人介護』という仕事は、年を経て施設に入所して来られた方々に対して、介護を提供する仕事です。
では、この仕事の場において公義といえば何でしょう?
ヨーロッパでは16世紀の宗教改革を通してそれぞれの国が、その国言葉で書かれた聖書を読み、そして成熟していくことを目指すようになりました。
最初は『教会に集い共に祈る、友なる人々』の人間関係こそが大切であるとされていましたが、さらに一歩踏み出して「神さまの霊に満たされてキリスト教会から一歩外に踏み出した所は、地上に現わされる天国になるべき所。そこに住む人々の苦しみ、悲しみ、嘆きが神によって取り去られるように、一心に祈り神と人とに仕えるべきである」と、広くキリスト教会以外の様々な場所においてもクリスチャンは祈り仕えるべきである、と教えられるようになりました。
そのようにして、聖書の国であるイスラエルから遠く離れた”極東の国である日本”にも聖書の福音は語られるに至ったのです。
『日本において日本語の聖書を読み、まことの神さまの素晴らしさを知り、世界中のあらゆる国の人たちの益のために自分のできることを喜びをもって祈り行うことは、まさに恵みである!』と、神さまに感謝をし続けることは、クリスチャンになった者の内なる気持ちです。
そしてその気持ちから離れずにとどまるには、努力が必要です。
それは、出て行く地においてはその地にすでに建てられた法・教えがあるからです。
「そこにある苦しみ悩みを取り去ってください!」
と祈るだけでは、それらの法にに従う人たちの間に理解は与えられません。
その只中に入っていき、神さまを第一にしながらさらにそれらの法に従って歩む人たちの奴隷となって一緒になって歩むことなしには、その地に福音が実を実らせることはあり得ません。
そのようにして、信仰者の実を実らせた信仰の先輩たちがこの世には沢山おられます。
