信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(へブル人への手紙11章4節)

 

兵庫県知事さんの釈明会見を見ていた時、『自分自身の監督すべき管轄内で一人の命が失われたことで組織全体が死んだという事実が覆い隠されようとしているのを見たような気がしました。

 

 

神さまは、表沙汰になるすべての事実を以て、私たちの弁明に注視されます

 

私たちの一挙一動(隠れていることも!)を、隠れておられる神さまは全てご存じなのです。

 

そして更に、この神さまはこうもおっしゃられています:

あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。(マタイによる福音書7章16節)

 

私たちは、見ることも知ることも出来ない神さまを裁くようにとは言われていないのです。却って自分自身の行い、また自分の周りに居る人々のことを正しくさばくようにと神さまに教えられているのです。

 

 

知事さんには知事さんのあるべき姿勢と仕事があるでしょう。また亡くなった方のほうも、あるべき地位とするべき仕事があったはずです。

 

法律を傘に立てるのではなく、法律を一人の人間として正しく治める人間こそ、あるべき地位に留まれる人物だと、ボクは思います。