「現代の価値相対主義は「近代の原理」を批判するが、

しかしけっしてそれを超えることはできない。

 

なぜなら、価値相対主義の内的動機はアイロニズムという

かたちをとった現代的な「精神の自由」への希求であり、

 

つまりそれ自身が近代の「ほんとう」への

欲望の挫折した一形態にすぎないからである」

竹田青嗣   『近代哲学再考』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑴ 「欲望の弁証法」、「他者の弁証法」の発見者としてのヘーゲル

 

 

⑵ 神学的形而上学者としてではなく、ナポレオンにおいて

  「歴史の終焉」を見る「無神論の完成者」としてのヘーゲル

 

 

⑶ カント、フィヒテに続く「ドイツ観念論」の完成者としてではなく、

  「空間」(自然)と「時間」(自己)という独自の二元論によって、

 

  闘争と革命の中で歴史を創出する存在として

  人間を再解釈した「実在論者」としてのヘーゲル

 

 

⑷ 「死」についての考察を起点として、

  人間を「否定性」として把握することによって、

 

  これまでの形而上学を独自の人間的主体の哲学へと改造した、

  「新しい人間学の創始者」としてのヘーゲル

 

 

 

 

コジェーヴのヘーゲル評価の両義性を簡潔に整理

 

ヘーゲルは、従来言われてきたような単純な「汎神論者」や「有神論者」ではなく、

また伝統的な意味での観念論的形而上学者ではない。

 

 

ヘーゲルの「二元的実在論」は、人間を、否定し、無化し、

運動する時間的存在原理として措定

 

 

「労働」や「闘争」という契機の中で自己を「自由」な存在として展開する人間精神

という生き生きとした「歴史」の像をはじめて哲学史の中においた。

 

 

ヘーゲル哲学が「弁証法的性格」をもつというとき、

「自由という現象、或いは同じことであるが、

用語本来の意味での行動、すなわち意識的、意志的な人間の行動を説明」

 

 

ヘーゲル哲学が「弁証法的」であるとは

人間を「単に自然であるにすぎぬもの」とは

 

 

「本質的に異なったものとして(略)記述し、

それによって世界における人間の現存在という事実を説明」するから。

 

 

「すなわち、自由=否定性=行動=歴史という図式がここにはある」

現実的な歴史の中には「神」の存在余地がないことも

逆説的に明らかにしている。

 

 

 

ヘーゲルは歴史哲学の中に「労働」「闘争」「革命」「歴史」という契機を導入

従来の形而上学的な歴史観を、「自由」という人間存在の本質を動因として

展開する歴史観へと根本的に変更した。

 

 

ヘーゲルは、人間的欲望の本質を「自由」という根本概念に設定して

近代という時代の歴史的意味をとらえ直そうとしたはじめての哲学者

こうコジェーヴは、いう。

 

 

もちろんマルクス主義的な歴史観から

ヘーゲルの可能性を読み直すもの。

 

 

 

 

「真なるものとは、おのれ自身となる生成であり、己れの終りを

己れの目的として予め定立し前提し、また初めとしてもち

 

 

そうしてただ目的を実現して終りに達することによってのみ

現実的であるところの円環である」

(「精神現象学」)

 

 

この体系の中では、どんな新しい知見も

付け加えられる余地はない。

 

 

ヘーゲルの哲学は「何人も否認しえぬ絶対的真理を叙述している」と見なされるが

それは「弁証法」的思考の本質から逸脱している。

 

 

人間の歴史は「主と奴」という普遍的な人間関係から出発

「自由の絶対的な実現」という段階において終焉を見る。

 

 

そこに人間と世界の絶対的必然性、換言すれば

歴史の絶対的必然性が閉じられた形で存在する。

 

 

 

「実在するものは永遠に自己同一のままに留まるであろうし、

その全歴史は永久に過去に属するであろう。

 

 

したがって、この実在するものの完全かつ正確な記述は

永遠普遍に有効であろう、すなわち絶対的に真である」

 

 

 

 

コジェーヴのヘーゲル論は、ヘーゲル研究として卓越しており同時に

ヘーゲル思想の核心を新しい「人間学」として、

つまり、「近代的な人間存在の本質論」として把握していた。

 

 

しかし以後は、核心部分ではなく、

「形而上学的」部分の批判に蝟集している。

 

 

 

コジェーヴは、

「否定性」ー「人間的欲望」ー「自己意識の自由」ー「絶対本質実在」といった

ヘーゲル思想の最も核心的な概念の意義を高く評価したが、

 

 

「労働」「闘争」「革命」「歴史」といったマルクス主義的概念の

系列の内部でしか捕捉できなかった。

 

 

ポストモダン思想は、マルクス主義の乗り越えを重要な動機とする。

この観点からは、マルクス主義の土台となったものとしか受け取られなかった。

 

 

 

「近代国家」・「国民国家」の根本的批判を行おうとするとき、

「近代思想」の枠組み全体への本質的批判たらざるをえない。

 

 

批判の拠点の立場は、大別して2つ。

 

一つは、マルクス主義が行った、唯物論的立場からの

「観念論」批判という立場

 

 

もう一つは、マルクス主義をもヘーゲル思想の展開型とみる

ポストモダン的な「形而上学」批判の立場

(その混合型へ移行)

 

 

 

「しかし、重要なのは、それらの批判が本質的な批判であるためには

コジェーヴが示したようなヘーゲル思想の核心部を

超えて進まなければならないということだ。

 

 

ここはいわばヘーゲル思想の『最高の鞍部』なのである」

(竹田青嗣『人間的自由の条件』)

 

 

 

コジェーヴ

ヘーゲルは単なる「形而上学的汎神論者」というより

むしろ、近代の人間本質論の創始者、あるいは始発者である。

 

 

 

このことを含む核心的意義を十全なかたちで展開できず

そのため近代思想の頂点としてのヘーゲル思想に対する

 

 

現代思想の本質的な批判と

展開を不可能にしてしまった。

 

 

 

 

ポストモダンを慎重に潜り抜け、

「ほんとう」を探して、ヘーゲルと共に進む。

 

 

近代哲学再考 「ほんとう」とは何か・自由論 - メルカリ

 

ヘーゲル読解入門 - 『精神現象学』を読む

 

 

人間的自由の条件

(P112~P116)