「たとえ外国人には奇異に見えようとも、

生きている都市には固有の伝統が存在する。

 

それを無視して都市を切り売りすることはできない。

(中略)これがわれわれの街なのだ。

 

(中略)これがわれわれの伝統であり、われわれの街なのだ。

われわれは長い間共産主義者の独裁のもとで生きてきたが、

 

実業家の独裁のもとで暮らすようになっても

生活はいっこうに良くならない。

 

彼らは自分たちがいる国のことなど

まったく気にしていないのだ」

グレゴリー・ゴーリン

 

 

 

「真理を広めなければならない。経済学の法則は工学の法則と同じである。

ある一連の法則があらゆるところに当てはまるのだ」

ローレンス・サマーズ

 

 

 

 

共和制ローマのマリウスやスッラが行ったと同じように、

軍人の給与を倍増して、陸軍の大半を味方につけた。

 

 

ワシントン・ポスト

「数千人規模の内務省軍、それに有刺鉄線や放水銃が議会を包囲、

水も漏らさぬ警戒網が布かれた

 

 

"The Threat That Was ," The Economist ,April 28,1993 ; Shapiro and Hiatt,

"Troops Move in to Put Down Uprising 

After Yelitsin Foes Rampage in Moscow."

 

 

 

警備隊を武装させ、国家主義者たちを味方につけたルッコイ副大統領

「一瞬たりとも平和を与えてはならない」

 

 

Serge Schmemann ,"Riot in Moscow Amid New Calls for Compromise,"

New York Times ,October 3,1993

http://www.ombragvg.com/pdf/librareklama1/doktrinashok.pdf

 

 

10月3日 カガルスキー

「国営オスタンキノ・テレビ局に向かって行進し、

ニュースを流すよう求めました。

 

 

なかには武装した者のいたけれど

ほとんどは丸腰で、子どももいた。

 

 

彼らに向かって、エリツインの部隊は

機関銃を発射したのです」

(ナオミ・クラインのインタビュー)

 

 

これにより、デモ参加者約100名と兵士1名が犠牲になった。

 

 

エリツインは、ロシア全土の市議会と地方議会の全てを解散

生まれたての民主主義は、新自由主義革命によって死んだ。

 

 

1993年10月4日の朝、エリツインはホワイトハウス襲撃を命じる。

ロシア国民に「三つ目の外傷性ショック」(Stephen F.Cohen)を与えた。

 

 

兵士5000人、戦車数十台、装甲車、ヘリ、重武装の突撃部隊を投入

 

 

ボストン・グローブ

「昨日10時間にわたって、約30台の陸軍戦車と装甲車が

モスクワ市内のホワイトハウスと呼ばれる

 

 

最高会議ビルを包囲して砲撃を加え、

歩兵隊が機関銃を乱射した。

 

 

午後4時15分、警備員や議会議員、議会スタッフら約300人が

両手を上げ、一列になってビルから出てきた」

 

 

Fred Kaplan ,"Yeltsin in Command as Hard-Liners Give Up ,"

Boston Globe ,October 5,1993

 

 

 

日付が変わるまでに軍の総力攻撃による死者は約500人、

負傷者は1000人近くに上り、1917年以来モスクワで起きた

もっとも暴力的な事件になった。

 

 

Kagerlisky , Square Wheels , 218

「政府当局はモスクワでの2日間の死者は142人と公表したが、

この数字はまやかひであり、実際の死者数はこの何倍にも上ったはずだ。

 

負傷者や暴行を受けた者の正確な数は誰も突き止めようとすらしなかった。

逮捕者も数千人に及んだ」

 

 

 

ピーター・レダウェイとドミトリ・グリンスキー

「ホワイトハウス内や周辺での掃討作戦で1700人が逮捕され、

武器11点が押収された。

 

逮捕者の何人かは競技場に拘留され、1973年、チリのクーデター後に

ピノチェト政権が取った措置を思い起こさせた」

 

 

Reddaway and Glinski , The Tragedy of Russia's Reforms , 427

Tragedy of Russia's Reforms : Market Bolshevism against Democracy

 

 

 

 

 

 

 

 

警察へ連行され、ひどい暴行を受けた者も少なくない。

カガルリツキーは、警官に

 

「民主主義が望みなのか、このクソ野郎。これが民主主義だ」

と大声で怒鳴りつけられ、頭を殴打されたという。

 

 

Kagarlisky , Square Wheels , 212.

 

 

 

ピノチェトはクーデターを起こし、民主主義制度を崩壊させた後、

ショック療法を強行した。

 

 

エリツインは民主主義制度の中でショック療法を強行、

その後、民主主義を崩壊させ、

クーデターを起こすことでショック療法を守った。

 

 

クーデター翌日

ワシントン・ポスト

「エリツインの強攻作戦に幅広い支持」

「民主主義にとっての勝利との見方」

 

 

ボストン・グローブ

「ロシア、かつての地下牢への逆戻りを回避」

 

 

ウォレン・クリストファー米国務長菅、エリツインとガイダルと肩を並べ

「米国はそう簡単に議会の一時停止を支持したりはしない、

今は、非常事態なのです」

 

 

John M.Goshko ,"Victory of Seen for Democracy,"

Washington post ,October5,1993

 

David Nyhan ,"Russia Escapes a Return to the Dungeon of Its Past ,"

Boston Globe ,October5,1993

 

Reddaway and Glinski , The Tragedy of Russia's Reforms,431

 

 

 

戦車の上で議会を守り英雄になったエリツインは、

ホワイトハウスを「ブラッディーハウス」に変えた。

 

 

ある中年のモスクワ市民

「国民が支持したのは、民主不義を約束したからです。

 

それなのに彼は、民主主義を銃殺してしまった。

エリツインは民主主義を侵害したばかりか、銃殺したのです」

 

 

Return of the Czar

 

 

ヴィタリー・ネイマン(1991年クーデター時、ホワイトハウスを警備)

「今あるのは僕たちが夢見ていたことと正反対のものだ。

 

あの連中のために命がけでバリケードに参加したのに

約束は守られなかった」

 

 

Nikitin ,"91 Foes Linked by Anger and Regret."

 

 

ジェフリー・サックスは、急進的な自由市場改革が

民主主義と両立することを証明したと称賛されていた。

 

 

彼は、議会砲撃後もエリツィンを公然と支持し続け、反対勢力を

「権力中毒にかかった旧共産主義者の一団」と一蹴した。

 

Cacilie Rohwedder ,"Sachs Defend His Capitalist Shock Therapy ,"

Wall Street Journal Europe ,October25,1993

50 Stories for 50 Years: Cécilie Rohwedder-Horvath '85 — The ...

 

著書『貧困の終焉』の中には、この劇的な出来事について

ただの一度も言及していない。

 

 

Sachs ,The End of Poverty.

ジェフリー・サックス『貧困の終焉―2025年までに世界を変える』(原書)<br>The End of Poverty : Economic Possibilities for Our Time

 

貧困の終焉 2025年までに世界を変える/ジェフリー・サックス/鈴木主税/野中邦子

 

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持続可能な開発に関するサックス教授の記事が読売新聞に掲載され ...

 

 

 

 

 

 

 

 

続く

 

 

ショック・ドクトリン〈上〉――惨事便乗型資本主義の正体を暴く

(P320~P324より、抜粋・要約・脚色)

 

 

 

新しい階級闘争 大都市エリートから民主主義を守る/マイケル・リンド/施光恒/寺下滝郎

 

新自由主義革命、上からの革命、といった視点は、

リンドのこの著作から。