現行の日本憲法について、長らく議論が続いてきた。
左派は、護憲、右派は、改憲といふ。
支那共産党や朝鮮半島情勢によって、危機が目前にあり、
日本人の多くは、改憲派になっている。
左派は、戦争はいけない、という「タテマエ」を
振りかざして、戦後の世論を引っ張ってきた。
その「タテマエ」が、現実の危機に際して、
「タテマエ」そのものが、有効ではなくなっている。
もちろん、その「タテマエ」はとても大切なものであって、
戦後の平和を享受できたことは、素晴らしいことだ。
だが、人間は戦争をまだなくすことをできない。
私たち日本人は、戦後、平和を享受できたけれども、
地球上のどこかで常に戦争は起こっている。
「主と奴の戦い」は、現代の近代国家には起こりえない。
だが、近代国家を通り抜けていない諸国家は、
いまだ「主と奴の戦い」が繰り広げられている。
方法論的独我論に立つ私としては、やはり、
日本という国家を背負っている私、
日本人である私が、出発点となる。
この日本という国家の外に出ると、
強烈な実感、どうしようもなく、私は日本人であり、
その長い歴史と先人たちが、私の身体に編みこまれている。
海外に一人でぷらりと旅に出てみれば、
私は、日本人というレッテルを貼られ、
いやおうなく、日本人であるという自覚をえる。
異邦の地で、外国人として、他の国々の人々と話せば、
その人々の国々のことについても話せば、
我が日本について、聞かれ語ることも多い。
天皇家について、首相についてなどの堅い話題もすれば、
もっとポップなテーマを語ることもある。
私たちの世代には、いまいちピンとこないが、
戦後は一貫して、反なになにで語られてきたようである。
だから、反社会的組織である共産党から、
かつて社会党、今は社民党や民主党まで、
日本の大衆に一応、受け入れられてきた。
ところが、民主党政権になって、急転直下、
日本回帰の方向へと、世論が動き出した。
別に、これは極右ということころまでいっていない。
極右にカテゴライズされるならば、戦前あった
暴力行為が必ず含まれるからである。
なぜ、改憲へと日本人の多くが舵を切ったのだろうか。
一つは、左派が論理的整合性を持たなくなったからである。
一つは、左派が反社会的行為を多く行ってきた、
もしくは、現在進行形で行っていることがある。
だから、「タテマエ」がまやかしと映り、
日本人の多くに本音が現出してきたことが考えられる。
ほかには、世代交代、マスメディアの知的退廃、
ネットメディアの普及などがある。
もはや、護憲と改憲との対立は消え去り、
改憲と改憲の図式になったように見える。
私は、現憲法は廃止の立場にいるが、
もし、改憲ということになれば、
あまり憲法にいろいろなことを書き込まないほうがよいと考える。
例えば、天皇家だが、「秘匿された超越」(竹田青嗣)であるので、
わざわざ、憲法に元首といったように書き込む必要性はない。
もちろん税金でー、という話が出てくるだろうが、
これも簡単な解決法がある。
まず宗教法人への課税を決める。
そして、神道系は、大元締めが、天皇家であるので、
収入の数%、数十%を収める法律を作ればよい。
これで、天皇家の独自の財源が確保できるので、
タイ王室のように、天皇家から貧しい人々や
病気に苦しんでいる人々に手を差し伸べることができ、
私たち庶民と天皇家の距離が縮まる。
こうやって、関わりが生ずれば「気遣い相関」(ハイデガー)が生まれる。
私たち庶民も天皇家をいっそう大切に思い、
日本人の隅々にまで、その敬意の念が強まる。
私たちは長い歴史を持っており、そのぶん多くの
日本人の過去の他者を背負っている。
その全てを、エリクチュール(書いたもの)にはできない。
ゆえに慣習法も入れておくべきだと考える次第である。