哲学というと、なにか高尚なものだと、

一般に思われています。

それなのに、大切ななにかがあるとも、

ほとんどの人々に、認識されているようです。



哲学が、なんだかこむずかしくて、意味不明ー、

これが、多くの人々の感じるところかと思います。



それは、哲学がとても難しい言葉で書かれているからです。

けれども、哲学はみんなの知的財産であるので、

めっちゃ簡単な言葉に書き換えていくことが、

このテーマの目的です。



まず、哲学とはなにか、この問いから、

始めたいと思います。



この問いに対して、さまざまな答えがありますが、

大きく分けると、2つになります。



哲学には答えがなく、むしろ確定的な応えの出ないものを

求め続けることに哲学の意味がある、というものがひとつです。



もう一つは、哲学の方法は、みなが納得するような考えを

打ち立てて、人間と人間が織り成すいろいろな関係を

本質的に捉えることが出来るものだ、というものです。



現代は、前者のほうが圧倒的に優勢なのですが、

実は、哲学が果たしてきたことは、後者なのです。



前者の代表として、カール・ヤスパースという人がいます。

この人は、このように書いています。



「哲学が科学の信仰者にとって最も嫌悪される点は、

普遍的妥当的な成果を全然もたないということ、



即ち私共が知り、それによって所有することができる

ような在るものを全然もたないということであります。(略)



哲学には決定的に認識されたものの一致性というものが

決して存在しないという事実は否定できません。(略)



また哲学的思惟には、科学のように、

進歩発達の過程という性格がないのです」

(「哲学入門」・草薙正夫訳・新潮文庫)



ヤスパースは、哲学の知を否定的にとらえてはいないのですが、

人間が生きていることにつきまとってくる根本的な問い、

例えば、「なぜ自分は自分なのか」

「なぜ人間は苦しんで生きているのか」

「死ぬとはどういうことか、死んだらどうなるのか」

などのある根本的な問いに対しては、科学のような

一致した答えは出ないのだとゆっています。

(上記のような問いを形而上学的問いといいます)



また、哲学の本質、について、こう書いています。



「哲学の本質は真理を所有することではなくて、

真理を探究することなのであります。



哲学とは途上にあることを意味します。

哲学の問いはその答よりも一層重要であり、

またあらゆる答えは新しい問いとなるのであります。」(前傾)



ヤスパースはこうゆっています。

哲学は科学と違って、客観的な答えの出ない学問であって、

科学のように着実に進歩してゆくものではない。



だから、哲学では、人間にとっての「根本的な問い」を

問い続けることに意義がある、とゆっています。

たぶん、現在では、誰もが納得できる答えのように見えます。

おそらく、こうした哲学観をみな共有されていることでしょう。



それでは、後者の正反対の答えを見てみましょう。

その代表者として、ヘーゲルの考えを書いてみます。



「学にとって根本的なことは、(略)学の全体が

それ自身の中で円環運動をなしており、



そこでは最初のものが最後のものであるととともに、

最後のものがまた最初のものであることにも

なっているということである。」

(ヘーゲル『大論理学』上巻の一「第一巻 有論」

武市健人訳 岩波書店)



ヘーゲルによると、哲学とは、世界全体についての

完全な「知」であって、だからそれは体系のかたちを

とらざるをえない、のだと言います。



体系というとややこしく思われますが、

例えば、数学や物理などの学問のように、

きちんと順序だっているものという意味です。



元に戻り、体系のかたちをとるということは、

哲学は「世界と人間」にかんする人間の知の

進み行きの全工程、またその進み行きの必然性の

全体をすっかり「理解」することなのだから、と

ヘーゲルはゆっています。



もっと平易にしてみましょう。

哲学は人間の知のありかたの全体的なものだから、

どうやっても、体系のかたちをとらないわけにはいかない

ということになります。



近代哲学のビッグネーム、カントやヘーゲルやニーチェなどは、

みんな後者に組しています。



それでは、竹田青嗣先生の哲学観を引いてみます。



『(略)哲学とは、科学(あるいは実証主義)とは違って

答えの出ない問いを問い続けるものであるどころか、



哲学の方法は、科学の方法の基礎でありまたその起源でもある。

またそれはたしかに、自然科学のようにつねに明確な答えが

でてくるわけではないが、



しかしそこで見出される「原理」は不可逆的なものとして

進展してゆき、決して後戻りしないという本性を持ちます。



さらに、そこには自然科学の方法では決して

とらえ得ない固有の領域、人間および

人間の諸関係の原理を捉える方法が存在する、

と言わなくてはなりません(略)』

(「近代哲学再考」竹田青嗣・径書房)



これから「原理」という言葉をいっぱい使いますが、

これはみなが納得して後戻りできないような考えのことをいいます。



ここで、竹田先生がおっしゃっていることを

さらに、平易にしたいと思います。



元々、ヨーロッパの諸学問は、哲学から出てきています。

例えば、数学、物理、化学、生物、地理、歴史、公民など

全ては、哲学がその源泉になっています。



哲学者が、数学者であったこともよくありました。

デカルトもライプニッツもそうでした。

19世紀半ばまでは、ヨーロッパの知の中心は、

実は、哲学だったのです。



もっとも優れた知性が哲学に集まり、近代哲学の流れを作り、

その成果が、「近代市民社会」です。



現代の日本においては、「自由」や「人権」などの権利が

空気のように当たり前にあるのですが、

これらは、すべて近代哲学のおかげなのです。



次回は、なんで哲学はこんなにむずいのか、

でいくと思いますー。



このテーマでは、受験屋らしく、バリわかりやすいことを

目的として、難解なカントやヘーゲルやニーチェなども

とても平易な書き直しをやってゆく予定です( ̄▽+ ̄*)



例によって、ぱくりまくったのは、

(「近代哲学再考」竹田青嗣・径書房)