学校という場所は、何度も言うが、

近代社会の要である。

それをぶち壊そうとする日本人が出てきた。



それも突如として、大量に湧いて出てきたのである。

もちろん、有効性を知っている上流階層からは、

そのような日本人は、ほぼいない。



前回、述べた時期は、階層の流動化が起き、

まさしく、世界のお手本となる教育システムであったのである。



それが証左に、欧米諸国だけではなく、

その他の諸外国も、日本の教育を見学するため、

大挙して、来日して、わが国の教育現場を見て回った。



アメリカもイギリスも、大衆のための教育は、

崩壊し、現場は疲弊・傍観・諦念の位相を

見せていたからである。



軍事力という牙を抜いたら、日本はダメになるかと思いきや、

見事な経済復興をとげ、オイルショックで先進諸国は、

ズタボロになっていく中、日本経済は驚異的に、

その大きなショックから、いち早く立ち直ったのである。



日本は世界史に名をとどめるほどの

リーダー(カエサルレベル)を輩出できる民族ではないが、

チームとしてならば、どこの国にも負けないほどに

現場の最前線に、非常に優秀な人々がたくさんいたのである。



この事象は、大衆の教育による「身体化」なくしてありえない。
それは、主に「学校」という場所を通ることによって、

日本人の各現場における秀逸性が現れたといえる。



だから、かつて「学校」という場所は、日本人にとって、ある種、

聖的・公的領域とされ、「学校」にやってくる親たちは、

ちゃんと正装していることが、当たり前であった。



例えば、父兄参観日にわが子を見に訪れる親は、

着物を着たりなど、きちんとした身なりをしていた。



そうした「学校」とそれらを結ぶ人々の確信の条件は、

見事なまでに、一致していたのである。



それが、ここまで崩れ去ってしまう現実を突きつけられ、

あるものは、マルクス(日教組)に責任をなすりつけ、

またあるものは、資本主義になすりつけるという

奇妙な「現れ」が、生じている。



マルクス(日教組)に責任をなすりつけることは、

今、流行っているといえる。



マルクス信奉者や現代思想の影響を受けた人々によって、

改竄された歴史を押し付けられた(自虐史観)、

または、過度な平等が、自由な競争を疎外した等の主張をする。



確かにこれらに指摘に対し、現実的に日本人が営々と培ってきた

暗黙的な世界像の共有をぶち壊してきたので、

一理あるという主張は、全面的に間違っているとはいえない。



でも知識人のほとんどが、こういう見解をとっていないため、

「現れ」を攻撃するにとどまり、本質的な議論がなされない。



また、資本主義の責任にするという主張が散見され、

それに対しては、知識人の多くがマルクスの大きな物語に

影響を受けてきた世代であり、現場の人々も同意する人が多い。



こういう主張を展開する代表例は、内田樹(大学教員)、

諏訪某(現場)などで特に、諏訪先生は、重要な指摘をした。



諏訪先生の意見は、子どもが消費者になったからである、

というもので、内田樹は、それに共感し、いかにもな、

理論展開を教育に対して行った。



内田樹は、レヴィナスを長年、研究してきたことから、

「他者」の概念を軸に、教育論を組み上げている。



これに関しては、徹底的な反論を行わなければならない。

もちろん、子どもが消費者になった論、に対しても

きちんと立ち向かい、完全に打ち負かさないといけない。



学級崩壊に代表される教育現場の荒廃の理由は、

資本主義責任論に大きな親和性を持ってしまう。



この種の理由付けが、非常に危険であるのは、

現実と大きく乖離しているからだ。



なぜなら、私たち日本人の生活世界は、自由主義と

資本主義の中で、織り成されているので、

子どもたちは、社会に放り出されるとき、葛藤・混乱するのである。



その中で、自己意識の形成に際して、最も危険である

「懐疑主義(ニヒリズム)」・「不幸の意識」・「ルサンチマン」

この3つに囚われて、健全な自己意識を形成しそこなうからだ。



「学校」という場所は、確かに、ここ今に至っては、

現実にそぐわない事象がそこここに「現れ」ている。



現在進行形で「現れ」が生じている以上、

現在進行形である現場は、常に後手後手に回り対応に苦慮している。



例えば、体罰といった問題やいじめという問題などは

今までの教員の経験からくる想定をはるかに超えて

「現れ」が生じており、文字通り、困っている。



疲れた、また次回に・・・。