天皇家は、幕末に日本において再び大きな存在となった。

それは、江戸期においてなされた国学、派生した水戸学など、

さまざまな思想が、そのバックボーンとなった。



学問だけならば、天皇家はそれまでの長い歴史の中で、

消え去っていただろう。



天皇家が、存在し続けたもう一つの理由、

それは、日本のいたるところに存在した神社であって、

時代が、変遷しても、日本人の信仰の対象であり続けたからだ。



もし日本が島国ではなく一神教の大国が近くにあれば、

神社は、徹底的な破壊をされてしまったことは、

容易に想像がつく。



キリスト教が古代ローマにおいて浸透して行った当時、

ドルイド教などの原始宗教は、徐々に姿を消していった。

(日本の神社も存在できなかったと断言できる)



宗教学では、一神教はもっとも発達した宗教だとされる。

その破壊力は尋常ではなく、古代ローマという

宗教に寛容な帝国が厳しく取り締まったにもかかわらず、

最後には、侵食されて、国家が衰亡し、ついにはなくなった。



この見解は、塩野さんに影響されたものだが、

絶対権威を生み出した宗教の人間への関与は、

非常に大きくなっていったことは世界史における事実である。



だが、日本において各地に見られる

信仰の対象となっているものは、

完全に、消滅してはいない。



信仰の対象となってしまったものは、

他の確信をもった一神教徒以外に、

恐れが先にたち、破壊してしまうことはできない。



日本にもそうしたものを破壊してしまう危機は、

数え切れないほどあった。



最初に、思い浮かぶ出来事は、崇仏論争である。

これは、旧勢力の物部氏と新興勢力の蘇我氏との

権力闘争の側面が大きかった。



蘇我氏の勝利により、日本に新たな宗教、

仏教がもたらされ、仏閣を豪族たちが競うように建築した。



だが、長年、信仰の対象であった神社を

破壊してまで、行うことはなかった。



それは、天皇家の影響が大きかった。

なぜならば、天皇家は神の子孫であり、

かつ、神社をすべて束ねる元締めのような

存在だったからである。



そして、その当時、権力の中心でもあった。

日本の原始宗教の総元締めであるとともに、

豪族たちにとって、利用価値のある権力でもあった。



日本の宗教は、以後、仏教が大きな影響を与えることになるが、

仏教は、とても難しい宗教であり、特に初期においては、

小乗仏教(上座部)と呼ばれるものだった。



初期の上座部仏教は、簡略していえば、

個々人がおのおのでもって、

自分自身を救済するものである。



そして、現世利益を施すものではなく、

死後の世界を「物語」るものであった。



さすれば、前世利益を求める人間ならば、

原始宗教である神道になる。



だから、現世利益では神社へ、

死は、仏教が司ることになった。



奈良時代は、どこにでも起こった現象だが、

宗教が政治に大きく干渉した時代だった。



現在の奈良の地図を見ると、分かりやすいが、

とても権力との距離が近い。

これでは、干渉が大きく影響してしまうため、

権力はこれを嫌い、最終的には、京都に落ち着いた。



政教分離がこれほど早く実現したことは、

世界史と比べても、あまりにも早い。

(もちろん、徹底的にはありえない。)



平安時代に入ると天皇家の権力はどんどん低下し、

藤原氏の摂関政治時代ともなれば、

権力は、まったくなくなってしまった。



それなのに、権力の側に利用価値があり、

かつ、緩やかな宗教権威としての天皇家は、

不可欠の存在だった。



ところで、日本の教育カリキュラムに古典がある。

よく出題される時代は、平安時代のものだ。

もちろん、時代の要請で、江戸期のものまででる。



その古典、時代時代によって、読み方を変えないといけない。

平安期ならば、その当時の常識が必要になる。



例えば、「行ひ」は、仏道修行になる。

これは、そろそろ現世をお暇する年齢になると、

貴族たちは、当時の仏教の教えに従い、

来世への準備をしていたということである。



個人救済なので、自らが仏道修行をすることで、

極楽浄土なり、生まれ変わりなり、の準備をしていた。



つまり、人生の多くは、神道(多神教)で

末期には、仏教に従っていた。



この使い分けが、日本人の宗教に対する

捉えかたの雛形を作ったといえる。



人間は、欲望ゲームに参加する。

しかし、死だけが平等であり、

この悲劇からは、どんな権力者や宗教権威でも

逃れることは出来ない。



神道(多神教)は、「死の物語」を共有されることは困難で、

日本においては、それを仏教が司っていた。



放埓な自由の欲望ゲームを死の物語で、歯止めをかけ、

日本人に現世におけるさまざまな制約をかけた。



それによって、日本人は日々の生活の中で、

仏教的死生観を共通了解し、多神教と仏教の共存により、

独自の習慣的ルールの束を作り上げていった。



これで、平安期まで書くことが出来た。

次回は、平安末期から始める。



文頭では、幕末期から始めたので、

さっさと進めていく予定だったのに、

思わぬ方向に手が動いてしまった。



このテーマは、たぶんほとんどぱくったものかもしれないが、

一応は、自分の浅学な頭の中にあるもので、

綴ったので、著作権などしらねー!