『ファンクラブツアー1984~1年前のリベンジを果たす』

 

 前回までのご報告の通り、私の初回のファンクラブツアーは天国から地獄へと突き落とされ、なかなか苦い思い出になった。親友やその他の友達に説明する度に、悔しい記憶がよみがえるという毎日。しかし、心の中では既に1年後のクリスマスをイメージし、次こそは一緒に写真を撮ってやると意気込んでいたのでした。

 

 母との約束は勉強をしっかり頑張ること。ただ、日々の慣習は変えられず、学校から帰ると、録画したジャッキーの映画をテープが擦り切れるほど見て、ジャッキーの歌をレコードで聞き、2か月に一度発行されていたインターナショナルファンクラブの会報を待ちわびているという生活が続いていた。部屋の壁一面にはポスターを張り、張るところがないと天井にも張り、とにかくジャッキーに囲まれたいというぐらい、生活の中心になっていた。

 

 この年も私は母から『続・ジャッキーへの道』と日付を記したお手製マップをもらった。この地図はゴールまで見据えると、あと何日勉強しなければならないと、もらった時は気が遠くなったのだが、折り返し地点から後半戦に行くにつれてあと何日でジャッキーに会えるとモチベーションも上がるため、本当には母はよく考えたものだと感じている。
その後は、ルーティンの繰り返し、とにかく帰ってきては録画したジャッキーの映画やテレビ番組を繰り返し見ては、夜には勉強という毎日を過ごした。目標がはっきりしていたため、とにかく勉強も頑張っていたし、ある程度の成果も出していた。

 

  そんな中、ファンクラブから念願のツアーの案内が届いた。すぐさま母に渡した。『何卒、よろしくお願いいたします』と一言付け加えるのも忘れなかった。母は『ここまではよくやっているから、この後も行けるようにしっかりね』と私に返答した。
既に母を満足させる結果も残していたため、ツアーの申込書が届いた時点で、自分の中では「もう行ける」と、ほぼ参加が確定できていた。

 

 

  申し込みは母が行っていたため、いつ、どういう状態になっていたのかはわからないのだが、12月が近づき、ツアー会社からもツアーのしおりなどが届き始めて、徐々に実感が湧いてきた。

今回ばかりは失敗できない、イメージトレーニングをする毎日。カメラの扱いも入念に練習し、同じ轍を踏まないために準備を整えた。前年、一緒に行った姉はツーショット写真を失敗した責任を感じていたのか、同行はしないということだったので初めての海外一人旅となった。

 

 待ちに待ったツアー初日、不慣れながら空港に到着すると前年より多い参加者が集合していた。東京と大阪からそれぞれ参加者が出発し、ツアー参加者は600名ほどいたと思う。
 2回目の参加ということもあり気持ちに余裕はあった。現地では同い年の子と同室になり、またちょっと上のお兄さんと仲良くなり、一人旅の不安は早々に消えた。男同士で行動を共にしていたところ、年上のお姉さん方とも仲良くなり、すごくアットホームな形で旅を進めることができたのが何よりよかった。

 

 パーティー当日、昨年のリベンジが果たされるかどうか、自分が試される時が来た。会場につくとウィリーさんが素敵な笑顔で迎えてくれた。マースやワン・ファーといったスタントマンチームの姿や、ジャッキーパパの姿もあり、パーティーが始まるまでの間に一緒に写真を撮ってもらった。

  

 

 

 いよいよパーティーが始まった。
 パーティーは映画のハイライト上映からスタートした。それが終わると、スクリーンを突き破ってジャッキーが登場した。

 

 ステージを動きながらジャッキーが歌を歌い始めたが、足を引きずっている様子だった。どうやら直前の撮影でけがをしたということのようだった。ファンと一緒にコーラスをするというので、私もステージに上がった。なぜだか、積極的に行動できたのが今となっては不思議な気がする。

 

 その後、福引があり、用意したプレゼントがなくなるとウィリーさんがジャッキーの着ているものをどんどん脱がせていって、プレゼントが追加され、パーティーも大いに盛り上がった。

 

 パーティーも終盤に差し掛かり、いよいよツーショット会がスタートした。

 ジャッキーイベントの恒例となったツーショット会はたぶん、この年から始まったはずだ。並んでいる最中には、ほとんどの女性が化粧を直したり、ドレスを直したりしていた。600名もの参加者がいると、なかなか自分の順番にはたどり着けず、ただただ、ステージ上の行方を眺めているだけ。徐々に緊張もしていき、今回は絶対に失敗はできない、何度もカメラを確認した。

 

 その時、ステージから急に「パチンッ!」という音が聞こえ、場内からは悲鳴が聞こえた。ステージ上のジャッキーに目を向けると、ファンの一人がジャッキーに平手打ちをしたようだった。当時の日本のファンの中には、熱狂のあまり変わった行動をするファンも多かった。決して許される行為ではないが、それほど日本のファンが熱狂していた時代だった。この方のやった行為は本当に許されない、今ならあっという間に会場外に放り出されるだろう。ただ、結果的にはこの方の思惑通りジャッキーの記憶に深く刻まれ、自伝本に記載されるまでの記憶になったのだろう(このことはジャッキーの自伝『還沒長大就老了』にも記載されている)。

 

  一瞬、その事件のせいでツーショットが取れなくなるのではという不安もあったのだが、ジャッキーは変わらずの笑顔でファン一人一人と写真を撮り続けていた。

 とうとう自分の順番が来た、図々しくもサインももらおうと色紙を持っていたら、ジャッキーの方からサインを書いてくれて、その後、一緒に写真を撮ることができた。内心これでほっとしたが、現像してみなければわからないという不安も残っていた。

 

 パーティーが終わり部屋へ戻り、ジャッキーからもらった参加者へのプレゼントを開けてみると、そこにはまたしてもサイン入りポスターが入っていた。今年もサインを手にできたといううれしさもあり、あとは写真が本当に問題なく映っていることを祈った。
 


 空港へ向かう帰りのバスで、ツアー写真の頒布があり、購入するとそこにはツーショット撮影の写真も入っていた。スタッフの方がとった写真が入っていたのだ。それを見た瞬間に、とうとう目的を達成した安堵感があった。
 

 日本へ帰るとすぐさまフィルムを現像に出した。ドキドキしながら現像の出来上がりを待ち、出来上がりまでの数日間はとにかく神に祈っていた。

 

結果は、自分のカメラにもしっかりと写されており、見事、昨年のリベンジを果たすことができた。



 

 両親も本当に喜んでくれた。自分にとっては目的を果たせたツアーではあったのだが、両親のサポートはここで終わらなかった。この後も私をファンクラブツアーに行かせてくれた。本当にありがたい、感謝してもしきれないほどだ。

 

 この時のツアーでは別の思い出もある、日本各地にジャッキー好きの友達ができたことだ。ここでできた関係は、この後数年続いた。今、みんなどうしているだろうか?もしブログを読んでいて、自分かもって思った人はぜひコメントを残してください。この時のメンバーの多くは翌年85年の日本横断ファンクラブツアーで札幌開催に参加し、私の地元で会うことができた。ちょっとした食事会もしたし、私の家に来てくれた方もいた。本当にいい思い出になっている。

 

 今回のブログではパーティーのことを中心に書きましたが、この年はゴールデンハーベストのスタジオ見学、ジャッキーの事務所の見学などもあり、サプライズでジャッキーも登場しました。写真だけで簡単に紹介します。また、この年からファンクラブツアーのビデオも販売されました。私も写っているかと思い購入しましたが、ビデオには写っておりませんでしたが、この後に参加した86年のツアービデオには2ショット撮影をする私が、しっかりと動画として残っており、これも今となってはよい思い出になっています。

 


最後はウィリーとワン・ファーのお二人がお見送りしてくれました。

 

でわ。また。