ばら色の雲間で会いました

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 例えば想像してみてください。

 あなたはある日、ふとした拍子に自分が空を飛べるようになっていることに突然気づくのです。
 夕暮れの帰り道に見上げた空の三日月があまりに綺麗だったので思わず深呼吸みたいに伸びをした瞬間かもしれない、あるいは、自転車置き場の屋根で丸くなっている知らない猫にそっと手を伸ばした瞬間だったかもしれません。
 ともかく、あなたの体はいつのまにかとても軽くなっていて、頭上に向かって視線と意思とを向けるとふわりと浮かび上がるようになっていたのでした。

 最初はひとりきりの部屋の中で、それからもう誰も人通りがなくなった夜遅くに近所の大きな公園に行って空を飛ぶ練習をしてみました。なんだかそれは小学生の時に初めて自転車に乗れるようになった時に似ていました。少しずつ距離を伸ばして行って、少しずつ遠くまで行けるようになること。
 まずは公園の一番大きな木の天辺まで、次は街一番のデパートの建物の高さまで、それから都心の高層ビルの屋上まで、街明かりを頼りに段階を踏んで鳥のように飛ぶ練習を続けました。
 思いのほか飛ぶことは簡単でした。あなたは空を飛んでいる間だけ、様々な考え事や悩み事を忘れて、つかの間の自由を思い切り感じることができました。
 あなたがいちばん好きだったのは、銀座のペニンシュラホテルの屋上に腰掛けて皇居のお堀を見下ろすこと、閉園後の横浜の遊園地の大観覧車の天辺に腰を下ろしながら目の前の港に停泊したたくさんの船の明かりを眺めること。

 もうだいぶ飛ぶことに慣れてきたある明け方、あなたはすごく早起きをして、空の上に朝焼けを見に行きました。飛行機が飛んでいるくらいの高さなので、ばったりジェット機に遭遇したりしないように気をつけながら、あなたは月明かりの中で小さな雲を通り抜けて遊んだりして、夜が明けてくるのをしばらく待ちました。間もなく、遠くに見える地平線が明るい薄紫色に染まり始め、やがて辺り一帯が綺麗な紫色から何とも言えない荘厳な薔薇色に移り変わっていくのをあなたは見ます。
 あなたはその瞬間、そのものすごい色彩の光をを反射しながらどこまでも続いている広大な空を目撃して、やっぱり神様はいるんだ、と心の中で実感します。
 あなたは、もうだいぶ前にハワイの島の外れの崖の上から海面の大きな激しい潮流をじっと眺めながら感じた、自然というものの持つ底知れないエネルギーと怖さを思い出していました。
 果てしのない空とそこから見える不思議で雄大な眺めにも、つねにそれと同じ怖さとあり得ないような神秘(ミステリー)とが、どこまでもどこまでも追いかけてくるようだったからです。あなたは、あなたがそうして空を飛び回ってきた事が、いつからか地球に触れようとすること、地球を見て観察して周ることだったと知っているのです。


 少し離れた向こう側の雲のところに思いがけず人影が見えてあなたは心臓がドキンとします。
 自分のことはすっかり棚に上げて、遥かな空の上に人がいるなんて思いもしなかったのです。
 もしかしたら、人間じゃなくてもっと怖い宇宙人か幽霊か何かなのではないか?…と思い、急激な緊張の中であなたはもう一度人影の方へ目を凝らします。流れて行く雲の片隅に自分と同じように明け方の空の色に染められた確かな人の姿が小さく、でもはっきりと見えました。
 その人はあなたと同じくらいの年齢でアウトドアな感じの服装をして、のんびりとした様子で空を飛んでいます。その人もあなたに気づいて、あなたに向かって一瞬微笑んだように見えました。
 あなたもその人に向かって努めて笑顔を送ってみせます。

 空を飛べる人間が他にもいたという事実にあなたはほんのちょっとガッカリして、でもその反面、仲間がいたことが嬉しく、色々な情報や体験を分かち合いたいという思いがゆっくりと湧き上がってくるのを感じましたが、でも、今は特に距離を縮めることもせずに、あなたはとりあえず空を眺めるのを続けて楽しむことにしました。
 正直に言うと不意に出会ったその見知らぬ人にいきなり近づいて行くことが、あなたにはまだ少し怖かったのです。日本人のようにも見えるけど、もしかしたら外国の人かもしれないし、数十メートル離れた場所で、どうやらその人もゆっくり景色を眺めている様子だったので、あなたもただ予定通りにまた今のあなたを取り巻いている息を飲むような朝焼けの風景に身を任せることにしました。
 この世の全ての種類の薔薇の色が含まれているような気がする、夢のような光が空と雲とをどこまでも染め上げています。
 あなたは色彩というものの中に既にもう「幸せ」が存在するのを知ります。時間じゃなく光が目の前を過ぎていく。同じ風景はもう二度とないことをあなたは強烈に体験するのです。不思議な色と形の雲の氾濫の中で。

 優しい、この上なく優しい、ピンクと紫の混じり合った空をあなたは見つめています。いつもそんな時はそのまま自分が空に溶けていってしまいそうな感覚になります。いっそこのまま溶けていってしまいたい、でもあなたは決して世界に溶けていったりはしない、なぜならそれが生きているということだから…。
 朝の大気の冷たさと風をあなたは全身で感じながら、ふと思い出して、離れた場所にいるはずのもうひとりの人の方へ目を向けます。あ、そうだ、この同じ風景を一緒に見てる人が他にも居たのだった、と思い出しながら。同じ風景を誰かと分かち合うということの意味をなんとなく感じながら…。
ちょうどその人もあなたの方を振り返り、なぜかあなたに片手を上げて遠くからピースサインを送ってくるのが見えました。
 広大な空と雲の片隅でブンブンと腕を振りながらのピースサインが小さく、でもはっきりと見えています。
 あなたは思わず声を上げて笑ってしまいました。この厳粛な空の果てでとても人間くさいその動作が不釣り合いで生々しくてハッとしたからです。それはこの途方もない大自然の只中であななたたちが頭とハートを持っている「人間」であることの紛れもない証しでした。
 それから、その人はもう一度手を振って、雲の向こう側へ鳥のように颯爽と消えて行きました。まるでバス停にでも急いで向かうみたいに。
 ああ、もう二度と会えないかもしれないのにな、とあなたは思います。でも、また会えるかもしれないんだ、とも思いました。ともかく、思いがけず、誰かと一緒にこの美しい朝焼けの空を眺めることが出来た。
 ただそれでいいんだ、とあなたは思ったのでした。
 あたり一面に太陽の光が差し始めました。
 明日の明け方、また同じ時間に同じこの辺にまた来てみよう! と、あなたはわずかに残った薔薇色の空の美しい片鱗を見つめながら、そう思うのです。



空想話はこれで終わりです。
 何となく自分の中に浮かんできたこの小さな物語の中で、空を飛びながら地球が朝焼けの色に染まるのを眺めたり、誰もいないはずの上空で他者に出会ったりすることを想像していたら、なんだかとても心地よくて、バイブレーションがちょっと変わるような気がしたので、ここに書き残そうと思いました。
 もしも誰かのベッドタイムストーリーにでもなれば・・・と思います。