MYSELF 

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 時々お会いするヒーラーの人に「あなたは海外に行くと人格が変わるから、本当は日本にいるより外国に住んだほうが暮らしやすくてラクだと思う」といつも言われます。
 サイキックの人の言葉は、いつも或る真実を突いていて、さらに思いもしない発想を含んでいます。
 国や文化や風土によって人格が変わる・・・そんなことってあるんだろうか?と思うけれど、その人の性格は、もしかしたら、あらかじめ固まったものじゃなく、本当はもっと自由な、流動的なものなのかもしれないなあと思ったりもします。


 さて、去年色々な本を読んだり、色々な人を見たり、色々な出来事を経験する中で、日々なんとなくずっと考えていたことがあります。

 それは、「客観的に自分というものを観察して、自分が思っている自分と現実の自分とのギャップに気がつく」ということの大切さ、みたいなことです。

 ありのままの本当の自分自身の現状(性格、趣味趣向、得意不得意、経済的な面も含めた状況、環境)を自分でわかってないと、たとえ自分はこうなりたい、こういうことがしたいというビジョンがあっても、その為の次のアクションが本当には踏み出せないのではないでしょうか。なぜなら自分で思っているだけの妄想の自分のままでいくら踏み出しても、現実との段差があって、必ずどこかでつまずいてしまうはずだからです。
 いったい自分がどういう構造でどういうふうにできてるかという設計図を自分で持っていないと、自分を自分で使用できないしメンテナンスもできないのかもしれません。

 それで、何故自分が思っている自分と現実の自分とのあいだで「ギャップ」ができてしまうかというと、育つ過程で親やいろんな大人たちやメディアの情報を通して、ずっと吹き込まれ、刷り込まれてきた、「人は、男は、女はこうでなければいけない、ある程度のことは何でも出来て、性格も良く、気が利いて、おしゃべりも上手で、親孝行で家族思いで、おしゃれで、情報通で、みんなから慕われて、友達もいっぱい持てて、素敵な恋愛を経験して、素敵な結婚をし、立派に子育てをして、・・・(エンドレス)」という常識という名の幻想のせいだと思うんです。

 こうして書き出していくとすごいし、もはや洗脳に近い!と感じるけれど、でもこういうことを大人になってからもずっと耳元で延々アナウンスされ続けるのが今の日本で暮らしていくということのような気がします。

 でも、じっとそれらの幻想を見ていくと、だいたい「誰か」の都合の良いようになっていることに気がつきます。企業とか、この世界を操っている人たちの「都合」です。

 
 最近テレビドラマとか映画を見てると特に感じるのですが、例えば朝の連ドラの主人公などをずっと観続けて育つと、人は自分もきっとそういう人なんだとどこかで幻想を抱いてしまうかもしれません。
 人はああいうドラマの主人公のような「モデル」とは違うし、そうじゃなくていいんだということが心からわかれば、とにかく今の世の中を生きていくのがすごくラクになるように思います。

 
 自分を客観的によーく観察して、本当のありのままの自分を知ること。

 その本当の自分を使って現実というものにアクセスしていくこと。

 そうすれば、自分で自分に課していた単なる思い込みの変なモラルと、その制約から自由になれるし、自分が思っている理想の自分とちょっとでも外れたことをしてしまった時の落ち込みや苦しみから、おさらばできる(これすごく重要)。
 

 自分は自分。好きなものと嫌いなものがあって、得意なこととそうじゃないこともあって、良いところとそうじゃないかもしれないところがあって、何でも自分で選んで決めてやっていっていいし、たとえ人から嫌われたって、ほかの人と全然違ったっていい。自分じゃない何かになんてならなくていい。

 だって(人を傷つけたりさえしなければ)自分の心の幸せが、本当は一番大切だから。



 いつも自分自身のことで大きく迷ったときには、大好きなトーベヤンソンさんがひとりで暮らした、あのものすごく小さな島の小さな家をふと思い出すことがあります。

 ほとんど誰も訪れず、社会から隔絶されたあの島のあの家から感じる、ある種の強さ、ヤンソンさんのご自身への愛のようなものに、いつだって、とても憧れます。