ある日のおひるごはん。
アジ一夜干し、すだち、大根おろし
鶏じゃが
とうふ味噌汁
白ごはん
鶏じゃがは母の作り置き。糸こんがたっぷり入っていて良い味でした。
母がアジをトースターに入れ、
私は大根をおろし、すだちを絞り、焼けたアジをさらに移す。
このアジも大当たり。コープの配達のものらしい。ふんわり臭みなく、美味しくいただきました。
母の不調は結局、これという原因がわからず(背骨の曲がりからくるものと推定)、毎日息苦しい、腰が痛くて足の感覚が弱くて歩きにくい、
の繰り返し。その日その日で多少の差はあれど、ちょっと楽そうに見えた翌日にどん底だったり。(本人は毎日同じく苦しいという)
ふと思うのは、私が母をそうさせているのではいうこと。
私といる時だけ、出かけていようが、ウチであろうが、
もう今にも死にそうな表情で、声が出にくいし歩きにくいと全力で訴える。
だけど同じ不調を持ちながら、3年間ひとまず毎日出かけたり、外食したり、家事したり、普通に見える生活をしている、できている。
風呂にも毎日入り、夜は途中トイレに一回起きるだけであとはぐっすり眠り、自炊もでき、世間話をする友人もいる。
それだけできているということを、心からありがたいな、と思うならば、ムスメに苦しいだの歩けないだの、撒き散らすだろうか。
母がそうなる原因として二つ挙げてみた。
1 私がしれっとしているのが気に入らなく、自分の痛みを共感してほしい、という不満の表れ。
2 しんどすぎてヒトのことまで考えている場合ではない。
2だと仕方がないが、以前、絶望的に不調をぐずっているときに、仲良しのご近所さんがピンポンと鳴らせば、最近見たことのない身軽さでひょいひょいと外に出ていき、張りのある声で楽しそうに喋っていた。
この時から、人によっての気遣いがまだできるのは本当の不調ではないと確信した。
1なら私の態度を改善した方が良いのかもしれないと、思いたいが、まだそこまで役者にはなれずにいます。
それを私が受け入れて、労りでもしたら、それこそ不調はそれにつけ込んで深く根付いていくような確信がある。
高齢者にもなっていないくせに、私の苦しみをもっとわかろうとしなさいよ!高齢者さまにひどいんじゃない?
みたいな笑
まあ程度の問題で、たまには優しく共感してあげないといけないのかもしれない。
だけどご近所さんや友人にはいい顔で接することができるのならムスメにももう少し気を使えよ、と思うのである、
私の気分のためでもあるのだけど、そうやって我慢してでも心配させないようにしようと思うこと、せめて不調を口に出さない方が、体調も良い方に向かうのではないかと信じているから。
なので私はそばにいない方が良いのか、と思うことがよくある。
できていることに目を向けて、小さなことに感謝していく。
それを続けていけば絶対ラクになるよ、ということが伝わらない。
いや、知っているけどできないのだ。
母はもうすでに感謝すること、心によって体調が良くも悪くもなるということはわかっている。いや、正確にいうとわかったつもりになっている。
これが母の重荷、足枷となっている。
頭でわかっているけど、私が見る限りうわべの知識なのだ。
知っていると思っていることが邪魔をして本当に心の底から思うところまでいかない。
患者は心に串が刺さる状態とのことだけど、感謝さえも感じれなくなってくる。
感謝できている、と思い込んでいるだけなのだ。
自律神経の問題は必ずあるだろうし、心が身体を引っ張っていくのだとしたら、母の今の心では真逆に悪くなる方にしか働いていない。
また、私なら、と思ってしまう自分もまだまだなのだ。性格が違う。
けど、
私なら母のような愚痴り方はしない。
グチるくらいなら、楽な姿勢があるのならそのようにさっさと横になり、黙っている。喋る方がしんどい。
またそれが相手に対する気遣いだと思うからだ。
そういうことをその都度思ってしまい、モヤモヤする。
自分とは違う人間なのだけど身内であるがゆえに
私の正義に反することをやっているので気に入らないのである。
と、私も自分の気持ちをアウトプットするためにこれを書いています。
書いていくと、最近特に自分の批判的なところ、分析したがるクセは、我ながらなんとかした方がいいなと思える。
なんだかんだ言いつつ、ツッコミどころが満載の母は昔より面白いし、一緒にいてて楽しい時も増えた。
薬や病院の世話にもならず、毎日規則的に生活できている母はすごいとも思う。
それだからこそ、苦しさを感じ続ける老後ってどうなんよ、なんでやねん、
と叫びたい。
痛みと苦しさから少しでも解放できるように、なんとかしたいだけなのだけど。
