いつかの朝メニュー


ごぼうと牛肉のすき煮

雑穀ごはん

きゅうりとわかめ酢

庭で採れたニラのみそ汁


ごぼうが美味しい季節

植物油を控えてるので、肉が多めのこのごろ。

母とは基本的に食べ物の好みが合うのでありがたい。

何かムッとすることがあっても美味しいご飯を作ってもらうと安心感とありがたさでこころが落ち着く。


腰が、息が、しびれが、、などなど

ごにょごにょ言いながらちゃんと作れるじゃん、とエラそうに思うムスメ。私のキゲンをとるためにがんばってくれたのかもしれない。


いちいちごめんねと言わなくても美味しいご飯を美味しくいただくと、いつもどおりになっている。


甘えとごまかしが許されるのが家族。

ありがたい存在でもある



母はよく、誰かと会った日、

「話が盛り上がって、すごく喜んでくれた」


と私に報告する。


いつも、よかったやん、とふつうに聞いていたが

どこか違和感があった。


先日ふと、その違和感がくっきりとわかった


母は、誰かを喜ばせたいのだ。

人を喜ばせられる自分でありたいのだ。


たとえば私なら、

「今日はすごい盛り上がって楽しかったわーやっぱりあの人はいい人やわー」

という。それだけ。楽しかったとはいうかもしれないが、その人が喜んでくれたかどうかなんて、わざわざ報告しない。

または聞かれなかったらわざわざ報告しない。

私の友人について母はあまり知らないはず。


だけど母は毎回報告してくる。

そのとき、「〜さんめっちゃ喜んでな」「たぶん話せるのが私くらいなんやと思うわ」

というような内容、毎回このような感想なのだ。


なんとも上から目線(笑)

と心のなかで苦笑。


とはいえ、高齢で不調となって、人と会うことも少なくなり、やはりだれかの役にたったり喜ばせたり、したいのだなと、

これはとても大事なことではないか。


そう思うと、何かしごとはないものか、と本気で思えてきて、ある時は色々提案していたが

身体が思うように動かない、と全て拒否されてきたので今は休戦中。

孫もいないので、それだけは本当に申し訳なかったな、と今さらだけどひしひしと感じる。


そして日ごろそう思っている私にとって今日ムスッとイラっとなった母のひとことはコチラ。


ひどく腰が辛いと、久々になじみの整体に行き、帰ってきた一声が

「久々やったからか、先生も(母が来てくれたことを)めっちゃよろこんでな」


と。なぜに上から目線(笑)


あなたは何をしに整体にいってるの?

先生を喜ばすため?


と思ってしまったのでした。

その報告はどうしてもスルーできなく、説教プラス不機嫌モードへと。

整体の大好きな先生に依存してしまう患者のパターン。

口ではいつかは卒業できるようになりたいと言っているけど、心の奥底では絶対にそんな気はないと断言できる。


だけど、母の気持ちも先に書いたようにわからなくもなく、

こちらもいちいち反応しないようにきをつけなければ、とひとり反省会。



いうまでもなく、不機嫌モードからの昼ごはんは大変美味しかった。

ごちそうさまでした。