「ま、いっか~」と思う癖を記事に書いたのを読み返していて思い出したことがありますひらめき電球

子供の頃、アレヤコレヤと悩んでいても答えが見つからないと思ったら「寝て忘れよう」とよく思っていた小学生の頃のことを目
寝ちゃえば、朝になるとすっかり忘れているからと、とりあえず寝ようと思ったんですね。
ま、悩みといっても交通事故で父親が亡くなったので、それまでの生活が一変したことくらいの悩みで、考えたところでどうしようもないことだったと思うんですけども。
考えてもしようがないことは、考える必要がないという判断ですねぐぅぐぅ

そんな風に思うこともきっと高次に守られていたんだと思うのです。
私たちって気づかないところでも高次の愛に包まれて生きているんですよね。
でも、そんなことも「私たちの愛を知ってビックリマーク」なんて高次は決して望まないんですね。
気づくことにこしたことはないのですが、一体どれだけの方が気づいているでしょう。
それでも愛を送り続ける「無償の愛」
どの場面で手を貸すかという事はとても大切で、それは三次元の世界でも一緒ですよね。
「本人の為にはどうすることが一番良いか」ということを考えるのが基本で、それはまるで身体の不自由な方に手を差し伸べるようなものですね。

小学生の時、2学年下の女の子が義足だったのですが、皆でワイワイ言いながら一緒に帰っていたのです。
その子が義足というのは私たちの中では当たり前のことであって、それに対して特別な気持ちはありませんでした。
片足義足で松葉杖をついていたのですが。
その子はいつも鼻の頭に汗をかき、皆と一緒の笑顔で帰るのがいつもの光景でした。
私達は歩くペースに気をつかうという特別視なんて、もうとうありませんでした女の子男の子


結婚して子供たちが小学校に上がると、PTAで差別についてお勉強したりしますよね。
ある時、ふと私の小学生のその時のことを思い出し、特別扱いしているのは「社会」にあると思ったのです。
そういう身体の不自由な子と日常一緒にいると、それが何も特別なことではないと普通に受け入れることができるんです。
目が一重だとか二重だとか、背が大きいとか小さいとか、個性と同じ感覚でいられるのです。
変に気を使うことがその子にとっては本当の「愛」ではないこと。
ひとりでできるようなことに手を貸す必要はないのと同じように、本当にどうしようもなく困っていることにだけ手を貸すこと。

それは高次が私たちに「どのような形で「愛」を送ることが本人にとってベストであるか」という姿勢であることと同じなんだな~と思いますキラキラ

*9日の記事にちょっと手を加え、追記していますので、再度読み返していただければ幸いですドキドキ



喜びを受け取ります、皆様と共にラブラブキラキラ


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