ぽけっとにチケット~おきらく観劇日記~

お芝居大好き。今日もぽけっとにチケットを入れて劇場へ。
小劇場からシェイクスピアまで、観てきたお芝居の感想をつづります。
基本、ネタばれしていますので、未見の方はご注意ください。


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KAAT神奈川芸術劇場大スタジオで上演された、タニノクロウ作・演出・庭劇団ペニノ『地獄谷温泉 無明ノ宿』を観てきました。

庭劇団ペニノは、今まで観る機会はなかったのですが、この、『地獄谷温泉 無明ノ宿』のフライヤーを見た時に、なにかビビッとくるものがあって、観てみたいけど横浜だしなー、と何気なくツイートしたところ、何人かの方から、「ぜひ観るべき!」とお勧めいただいたので、急遽チケットを取って行ってきました。

 
まず、神奈川芸術劇場の大スタジオに出現した、温泉宿の美術に驚きました。回り舞台で、いくつかのシーンが客室、湯殿、脱衣所などで演じられるんですが、ここまで細部にわたって作り込まれた美術を見たのははじめてかもしれません。美術だけでもひとつの芸術作品という感じで、照明や音響と相まって、とても美しかった。
 
この作品を観ながら、胸の中に、「懐かしい・・」という気持ちがわいてきたんですが、それは、今まで自分が行った温泉宿とか、建物の古い佇まいとかに自分の記憶が呼び覚まされたのだろうな、と思いましたが、そのうち、それだけではなく、もっと、奥深いものを呼び起こされたのかもしれない、と思うようになりました。
 
窓に映る夕陽のリアル、
登場人物達の息づかいや沈黙のリアル、
湯殿の湯気や水音のリアル、
観ているうちに私もその宿にいるような気持ちになっていきましたが、その写実性の裏にある、なにか得体の知れないものに引きずり込まれるような気もして、少し、怯えながら観ていたような気もします。
 
私が観ていたのは、リアリズムの極致だったのか、はたまたホラーか幻想か、いずれにしても、心に爪痕が残る、忘れられない芝居のひとつになりました。
 
以下、ネタバレありの感想です。2018年1月の富山公演を残していますので、未見の方は、自己判断のもと、お読みください!
 
 
 
 
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2017年11月11日(土)13時
KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ
作・演出 タニノクロウ
出演 マメ山田 村上聡一 森準人 石川佳代 久保亜津子 日高ボブ美 飯田一期
(声の出演)田村律子
 
 
 
 
 
2015年の秋、とある山奥の温泉宿に、人形師の親子がやってきます。その親子、倉田百福(マメ山田)と倉田一郎(村上聡一)は、人形劇を見せてほしいとの手紙をもらってきたのですが、依頼主がおらず、誰からの依頼かわかりません。やがて日が暮れて帰りのバスもなくなってしまったために、二人はこの宿で一泊することになります。
息子は、小人症の父親に対して淡々と世話をしていて、親子というよりは師匠と弟子という感じ。息子の、感情を表さない表情は、深い闇を感じさせました。
 
この宿には、老婆の滝子(石川佳代)、盲目の男松尾(森準人)、芸奴の文枝(久保亜津子)といく(日高ボブ美)が逗留しており、口のきけない三助(飯田一期)が彼らの世話をやいています。
湯治客達と、親子は言葉を交わしますが、子どものような体躯の父親と、中年男の息子という組み合わせに、湯治客達は好奇心を隠せない。そして、人形師の親子の存在が、淡々と湯治宿で過ごす彼らの日常に波紋を投げかけ、やがて、それぞれが抱いている欲望を照射したように見えました。
 
お座敷を終えて酔って帰ってきた芸奴達が、人形劇をやってほしいと頼み込み、父親が、「では、少しだけ」と言って取り出した人形が、すごく不気味で驚きました。さらに、息子が弾く胡弓の哀切なメロディーにのって、その人形を動かす動きがグロテスクで、どこか挑発的でもあり・・
 
それを見て、すっかり場は冷めてしまうのですが、私は、そうか、この人形師が呼ばれるのは人形劇の芸ではなくて、父親を含めた見世物を見るためなのだなあ、と思って、そんな父親とずっと一緒に旅をしている息子が失ってきたものを思うと、(学校にも行っていないとの台詞がありました)空洞のような目になるのもわかる気がするのでした。
 
これが引き金になったのかどうか、
やがて、湯治客達の、自分が失ったものと求めているものが立ち上がってきたようでもあり、
今は孤独な身の上らしく、芸奴達の疑似母親をやっている老婆は、かつて自分が三味線弾きになりたかったことを思いだし、
もう年齢歴には子どもを産めないであろう芸奴の文枝が、人形を見て、「あれは成長できない子どもだ!」と怯えたのは、かつて子どもを失ったことがあるのでしょうか、
 
光を失い、一縷の望みをかけて湯治を続ける盲目の男も、人形を触って、驚き、怯え、嘔吐し、でも、何かの欲望に突き動かされているようで、
三助も、人形師の父親の入浴姿を見て欲情したり、と、それぞれが、何かに突き動かされたようになり、
 
その中で、夫と離れて暮らしている芸奴のいくは、「子どもがほしい」と思っていて、そのために三助と交わります。
老婆の膝の上で泣く文枝。
死んだように動かない盲目の男。
三助と交わるいくの嬌声と、文枝の慟哭が響く中、舞台が回る。
ここは、切なさと狂おしさが迫ってきて、私の心も波立ちました。
 
一夜明けて、みんなが朝風呂に入ってくると、前の晩の狂騒はなかったような、少しけだるい、再びの日常が戻ってきます。
親子も最後に朝の一風呂を浴びてから、宿を後にしていきました。二人が去るそのことに、少しの爽やかさを感じたのはなぜでしょう。いや、ほっとしたのかな。
 
人形師の父親の、「自分は人が求める惨めさに応える存在なのだ」という台詞があったんですが、それを聞いて、異形のもの、自分とは違う存在への怖れと好奇心と目を背けたい気持ちや、異なるものの上に立って安心したい、などの暗い欲望が自分にもあることに思い当たってしまいました。
「国中が血に飢えだしたこの時代こそ、人々は今圧倒的な惨めさを必要としているのだ」というナレーションもありましたが、人はいつの時代でもその要求をもっているような気もします。
 
また、何かを失っている登場人物達を見ていて、生きると言うことは、何かを失っていくことの積み重ねでもある(究極的には命が終わる)という側面も思い起こされて、「孤独」という文字も胸に浮かんできました。
例えいろいろな人との関わりがあっても、生まれてきて死んでいく、ということは根源的には孤独な作業で、
 
この作品を観て「懐かしい」と思ったのは、日常生活をバタバタと過ごしている中で、忘れているーもしくは、忘れたふりをしている、「孤独」や、自分自身のもつ「暗い欲望」に出会ったからかもしれません。
でも、この作品で一夜のあだ花のように表現されたそれらは、私の心の中に狂おしい光を放ったような気もします。
 
タニノクロウさんは、故郷の富山に新幹線が開業して、古い湯治場や風景、文化がなくなっていく悲しみからこの作品を作ったとのこと。
最後のシーンは、子どもを抱いたいくが、窓から新幹線を眺めるシーンで、「この宿は建て壊しを免れた、いつでもお越しを待っています」とのナレーションが入りました。
でも、新しい命を抱いているいくを見ても、純粋な希望を持てない自分がいるのでした。
 
タニノさんの演出は、性衝動をストレートに投げ込んでくるシーンが多かったのですが、だからといって露悪的な表現で観客をねじ伏せようとしていたようには感じられず、何か、記号的な意味があったように思いました。時々ナレーションが入ることで、物語の理解の助けになりましたが、少し、親切過ぎた気もします。
 
俳優さん達の演技は、その緻密さ、哀しさ、ユーモアが素晴らしかった。
入浴するシーンは、一切体を隠すことなく演じていたので、ちょっと驚きましたが、演じる俳優さん達の肉体もグラビアのような美しさではなく、とてもリアルな肉体だったので、かえって淫靡な印象は受けませんでした。
でも、演じた俳優さん達のプロとしての仕事ぶりには、感嘆しました。
 
この作品は、セットも限界ということで、2018年秋のフランス公演を最後に、セットをすべて焼却し、永久に封印するとのこと。
もう再演されることのない作品を、最後に観ることができてよかったです。
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