(空から見た東京スカイツリー、隅田川、下町の街並み)
昨日は隅田川花火大会でした。
コロナ禍による中止を経て4年ぶりの開催。
100万人を超える人が集まり、スカイツリーや隅田川の屋形船を背景に素晴らしい風景でしたね。
私はテレビで楽しませていただきました。
平和のありがたさを感じるひと時でもありました。
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本当にお久しぶりです。
日本のお盆はだいたいどこも8月13~15日ですが、なぜか東京は7月13~15日です。
わが実家は東京にあったので、毎年7月にお盆を迎えます。
先日、7月半ばに千葉県の浦安にお墓参りをしてきました。
浦安のお墓には、私の父の両親とともに、その3人の子供、つまり父の兄姉弟が眠っています。
このうち父の姉と弟は、1945年3月10日の東京大空襲で深川(今の江東区西部)から浦安に逃げる途中で亡くなりました。
私の父は90歳を過ぎましたが、ウクライナ侵攻を報じるTVで爆撃により子供を失い泣き叫ぶ母親の姿を見て、東京大空襲を思い出したそうです。
父の姉弟の78回忌となる今年の3月、父から「短い命」という文章が送られてきました。
その文章や父に聞いたことなどをもとに、当時起きたことを書きたいと思います。
刺激が強いかもしれませんので、注意してお読みください。
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1931年生まれの父は5人兄弟(兄、姉、父、弟、妹)で、兄は小さい頃に亡くなり、父が実質的な長男になりました。
姉と弟は東京大空襲で亡くなりました。
多くの人と同じく遺体は発見されず、二人のお骨はおそらく、他の多くの人と一緒に墨田区横網の東京都慰霊堂の納骨堂で眠っているのではないかと思います。
(2017年に訪れた東京都慰霊堂。右側の三重塔の下に納骨堂があり、関東大震災の犠牲者5万8千人、東京空襲の犠牲者10万3千人のお骨が納められています。)
さらに少し遡りましょう。
戦前、祖父の実家(本家)は深川と浦安で金魚養殖業を営んでいました。
浦安の金魚池で金魚を育て、深川の営業所で販売していたのです。
祖父一家(分家または新家)は浦安に住み、祖父は本家が営む浦安の金魚池で働いていましたが、父の姉が小学校に入る1936年、祖母と子供たちはより教育環境のいい深川(本家の営業所の近く)に引っ越してきました。
祖父は浦安に住んで働き続け、時々自転車で深川に来ていたようです。
そして、盧溝橋事件(1937年)、真珠湾攻撃(1941年)など、戦争がはじまります。
父は1944年に国民学校(今の小学校)を卒業し、4月に12歳で今の茨城県古河市にあった「古河地方航空機乗員養成所」に入ります。
民間飛行機の乗員養成所ですが、既に戦局は厳しくなっており、当然のように戦争に行くことを考えていたようです。
1944年8月、夏休みで家に帰ってみると、大通り沿いにあった深川の家は空襲対策の道路拡張のために取り壊され、浦安にいた祖父を除く家族4人は近くにある本家の物置小屋に住んでいたそうです。
その時に撮った家族6人の記念写真を見ましたが、写真屋さんで撮ったと思われるきちんとした写真で、祖父はネクタイ姿、父は制服姿で写っています。
これが家族6人が揃った最後の写真であり、父の姉弟の最後の写真にもなりました。
祖父や祖母には、家族が揃った最後の写真になるかもしれないという予感があったのかもしれませんね。
(東京都慰霊堂の内部です。)
1944年9月には、国民学校6年生の弟と3年生の妹が新潟のお寺に疎開します。この年齢の子供は地域ぐるみで学童疎開したそうです。
それから半年後の1945年3月1日、弟の国民学校卒業式を控えて祖父が新潟まで弟と妹を迎えに行き、連れて帰ります。
深川の家で父を除く親子5人が再会したのち、深川の家を守る祖母以外の4人が一旦浦安に移ります。深川より浦安の方が空襲が少なかったからでしょう。
3月9日、姉と弟が再び深川の家にやってきます。姉は高等女学校3年生、弟は国民学校6年生。いずれも卒業を控えて戻ってきました。
祖父と妹は浦安、父は古河の養成所にいて不在。その日、深川にいたのは、祖母と姉、弟の3人でした。
二人が深川に戻ってきたその日の夜がまさに東京大空襲でした。
私は今まで気づいていませんでしたが、「3月10日の東京大空襲」は3月10日の午前零時すぎ、つまり9日の深夜に行われたものなのです。
浦安からの帰りが1日遅ければ、二人は大空襲に合わなくてすんだことになります。
東京大空襲における米軍の第一目標は、住宅の密集する下町・深川区です。
3月10日0:07、深川区ほかに焼夷弾の投下が始まりました。
祖母が後日書いた手記では、サーチライトに照らされたB29の白い機体が群れをなし、あちこちからすさまじい火災が吹き出したそうです。
疎開していて空襲に慣れていない父の弟は、恐怖に顔を引きつらせていたと祖母が書き残しています。
(東京都慰霊堂の祭壇です。)
祖母は二人の子供を、住み家である物置小屋を貸してくれていた本家の深川の家に走らせます。
本家の深川の家には祖父の兄や中学校に通っていた父のいとこのお兄さんたちもいたので、一刻も早く一緒に浦安に避難させようとしたのです。
祖母が大事なものを身に着けて火の海を潜って本家に辿り着くと、二人の子供は本家のお兄さんとともに浦安に向かったとのこと。
急いで後を追いますが、どこもかしこも火だらけで、逃げ惑う人たちの姿は修羅地獄を想起させたそうです。
火に阻まれて迂回しながら、防火用水で頭から水をかぶりかぶり進みました。
朝になり、荒川にかかる葛西橋を越え、やっとの思いで浦安に着きましたが、すすだらけの姿に地元の人が驚いていたそうです。
深川から浦安まで約9キロ。グーグルマップで調べると歩いて2時間程度ですが、この時はいったいどれだけの時間がかかったのでしょうか。
祖父のもとに辿り着いて子供たちのことを聞くと、「着いていない」…体中の力が抜けた一瞬だったでしょう。
祖母から事の次第を聞いて、祖父が自転車で捜索に飛び出していきます。
深川に入ると、黒焦げの死体が散乱しており、異臭が漂っていたそうです。川の筏にも多くの亡骸が。どれも個人を特定できるような状態ではありません。
祖父は関東大震災の時にも同じ光景を見たといいます。
夫婦で何日もあちこちを探したそうですが、手掛かりはありませんでした。
二人が帰ってこないと諦めた時、祖母は二人の学校の通信簿や作品を全て焼いてしまったそうです。
本家の人も、父の姉弟を連れて浦安に向かったお兄さんを含め、父のいとこ二人が亡くなりました。
祖母は、戦後25年の1970年に述懐しています。
父の弟が疎開から東京に帰ってきた時、弱った身体で「麦ばかりでなく米のご飯を食べたい」と言ったのを𠮟りつけて米を隠してしまったことが悔やまれてならない、と。
(東京都慰霊堂にある「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」。内部には、東京空襲の犠牲者名簿が収められています。)
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一方、茨城県古河の航空機乗員養成所にいた父の方です。
古河でも3月9日夜には空襲警報が出され、東京方面の南の夜空は赤く燃え上がっていたそうです。
その後、東京出身者の家族の安否を調べてくれたそうですが、本家の人たちの安否だけで、姉弟の話はなかったそうです。
4月20日、古河の養成所は空襲で危険だということになり、400名の生徒全員が奥日光の温泉旅館に疎開。イモ畑の開墾などをしました。
当時の皇太子殿下(現在の上皇陛下)も近くに疎開していたそうです。
7月6日、祖母が妹を連れて突然奥日光の父の元を訪れます。東京は連日空襲、6月24日には沖縄も陥落して「今、会わなければ」と3~4日分の食料を持って訪ねてきたといいます。奥日光に面会に来た家族は殆どいなかったとのこと。
「奥日光」というだけで宿泊場所も分からず、探しているうちにたまたま養成所の教官と出会い、面会の便宜を図ってもらったそうです。
「夕食まで」という面会許可を受けて親子3人で会いましたが、何を話したのか、父の記憶はありません。
祖母は夕食後もまた来てくれるかと部屋で一晩中待っていたそうですが、「夕食まで」という条件を守った父は会いに行きませんでした。
面会が終わって父が教官に報告すると、紙切れを手渡され、
「親思う心にまさる親心 けふの訪れいかに聞くらん」
と記されていたそうです。
明日は死ぬかもしれない毎日を送る中で、既に二人の子供を失った母親が残された子供に一目会いたいという必死の思い…教官にも伝わったのでしょうか。
その後、米軍の空襲に備え、養成所の生徒舎を取り壊すために生徒たちが古河に一時的に戻ったのが8月14日。終戦の前日でした。
翌8月15日、全員が養成所本館前に招集されて玉音放送を聞きました。
父は放送を聞いても意味が分からず、教官は黙ってその場を立ち去ったそうです。
その後、戦争が終わったという噂が流れてきます。
翌日16日午後に「明日、帰宅せよ。支給された物は全て持ち帰ってよい」と言われ、軍服や軍靴などが分配され、靴下に米を入れてもらい、国鉄の切符を渡されました。
奥日光に置いてきた荷物を取りに行く暇もありません。
養成所の校長は馬に物資をいっぱい積んでいなくなったとの噂もあり、「国が崩壊するときというのはこういうものなのか」と感じたそうです。
(父の写真より。古河の航空機乗員養成所にて。)
深川の家に向かい、17日に国鉄の最寄駅、総武線錦糸町駅に着くと、ホームから見えるのは、一面何もない焼野原。
足がすくんだそうです。
深川の家には誰もいないと判断して徒歩で葛西橋を通って浦安に向かいました。
大空襲の中、父の姉弟たちが通ったであろう道、祖母が通った道と重なります。
浦安にたどり着くと、両親と妹が出迎えてくれ、早い帰還に驚喜したそうです。
こうして、深川の家は灰塵に帰し、親子4人(祖父、祖母、父、妹)の戦後が浦安で始まりました。
父は中学校の教師となり、同じ中学の同僚だった母と結婚します。
1960年、父と母の結婚を機に、深川に新しい家を建てて祖父、祖母も含めて浦安から引っ越し、深川での新生活が始まります。
私がその深川で生まれたのはその2年後、1962年です。
その後、祖母は1985年、祖父は1994年にこの世を去りました。
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冒頭でも書いたように、先日、お盆で訪れた浦安のお寺には、祖父、祖母とその3人の子供(早逝した父の兄と空襲で亡くなった姉、弟)のお墓があります。
祖父、祖母は、今は彼岸の地で3人の子供と一緒にいるのでしょう。
(今年はお彼岸のお参りがひと月遅れの4月になりました。写真はその時のもので、激しい雨が降っていました。)
両親も90歳を過ぎ、江東区深川の土地建物を売って、今は船橋の高齢者マンションにいます。
数年前から、お墓参りやお寺とのやりとりは息子の私に移りましたが、仏壇は両親のもとにあり、お盆の行事も船橋でやっています。
(遅いお彼岸参りの4月。大雨で人影もありませんでした。)
お墓を水で清め、お盆の花を飾ってお祈りした後、両親の住む船橋に向かいます。
浦安のお墓から船橋に向かうときは、浦安名物の焼きはまぐり、焼きあさりを買っていくのが習慣です。
浦安駅の近くにある焼きはまぐり屋さん。おばさんたちが手で串に刺してくれます。
昔、浦安周辺ではあさりがよく取れ、父も小さい頃に天秤棒をかついであさり売りをやったとも聞きます。
今のこのお店のあさりは中国産だそうですが…。
船橋の家に着き、仏壇にお盆の祈りを捧げます。
お盆期間中ですから、この時5人の仏さまは船橋の仏壇のところにいたのだと思います。
母が、ごはん、煮物、みそ汁、お茶などを「仏さまに」と言って毎食仏壇に捧げています。
両親といろいろな話をして、二人が元気なことに感謝しつつ家に戻りました。
その後、お盆が終わって5人の仏さまが船橋の仏壇から浦安のお墓に戻るときには、お墓に飾られた花を見て「きれいだな」と感じてもらえたでしょうか。
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祖父が働いていた浦安の金魚池ですが、1965年から始まった海面埋立事業で周辺の都市化が進み、1973年までに買い上げられ、埋め立てられてしまいました。
金魚池があった場所は市の文化施設等になっています。
その一角に作られた金魚池に関する市の説明板。わずかに残る痕跡ですね。
その説明板にあった「大正末期の金魚池」の写真は、おそらく戦争の頃の姿に近いのではないかと思います。
私も小学生のころ、祖父に連れられて何度か浦安の金魚池に来ましたが、その時印象に残ったのは、川に浮かぶたくさんの小舟でした。
江戸川の支流である境川は漁師町・浦安の中心を流れ、多くの舟が並び、人々はその水を飲み、子供たちは泳いで遊んだそうです。
そこに浮かぶ小舟は「べか舟」と呼ばれ、魚介類の荷揚げ等に使われました。
以前、歩いていたら、べか舟とカッパのこんなかわいいモニュメントが。
市の説明板にこんな写真がありました。
祖母がすすだらけの姿でたどり着いた戦争中の浦安の街は、こんな風景だったのでしょうか。
しかし、1971年には漁業権が放棄されて「漁師町・浦安」は消滅し、べか舟も姿を消しました。
私が小学校の時に見たべか舟は、まさにその最後の時代だったことになります。
埋立地にディズニーランドができたのは1983年。今や浦安のイメージもすっかり変わりました。
浦安特産のあさりが中国産になってしまったのも時の流れです。
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浦安から地下鉄東西線で4駅のところに、深川の家の最寄駅である東陽町があります。
写真は駅前の四ツ目通り。この道をまっすぐ(北向き)に行ったところに深川の家がありました。
さらにその先が総武線の錦糸町駅。父が1945年8月17日に降り立って焼野原を見た場所です。
(遅いお彼岸の4月に浦安のお寺と船橋に行った後で寄った東陽町。雨は上がっていました。)
今では普通の道ですが、1944年にはこの写真の道の右側約5メートルが、ここから錦糸町を経てその先の押上(スカイツリーのあたり)まで、空襲に備えて建物が全て取り壊されました。
しかしそうした準備の甲斐もなく、このあたりは全て焼き尽くされ、何もなくなってしまった訳です。
(1944年にこの道の右側が取り壊されました。今はこの先に江東区役所があります。中学から結婚まで、深川の家から東陽町駅まで約15分の道のりを通学通勤でほぼ毎日歩いていました。)
深川の家の周辺は、もともと「深川十万坪」と呼ばれる江戸時代のゴミ捨て場でしたが、湿地を利用して祖父の本家筋が明治時代(1885年)に金魚などの養殖を始め、一時は広大な養殖池がありました。
しかし、関東大震災後の都市計画等で四ツ目通り等の道路が建設されることとなり、金魚池を浦安に移して深川には営業所のみとなりました。
その営業所も戦争で焼けて人手に渡り、本家筋は全て浦安に移って、ここには祖父、祖母の家だけが残りました。
戦後は、祖父一家は深川に住み、祖父は60歳近くになって自動車運転免許を取って浦安の金魚池に車で通っていました。
私も小さい頃、深川の家から祖父の車に乗って浦安の金魚池に何度も遊びに行き、帰りにいつもざるそばを食べたのがいい思い出です。
この深川には、かつて金魚池があった痕跡は何もありませんが、金魚池があったのは関東大震災の前の話ですから、無理もないかもしれませんね。
街は常に姿を変え、時には焼野原となり振り出しに戻っても、二度三度と立ち上がり、ひたすら前を向き未来へと進んでいくのでしょう。
今は家もなくなってしまいましたが、この場所は私にとって引き続き縁の深い場所であり続けるでしょう。
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話は変わって2020年9月、長崎への出張で羽田空港を飛び立ちました。
晴天で眺めはよく、珍しく東京湾に出ずに市街地の上空を飛んでいきます。
地図で見憶えのある川の形…荒川を突っ切るように蛇行する中川と旧中川です。
見えているのは江東区、墨田区、江戸川区、葛飾区あたりですね。
そしてスカイツリー。墨田区押上のあたりです。
ちょうど飛行機の真下あたりが総武線の錦糸町駅だと思います。
押上⇒錦糸町⇒深川の家⇒東陽町という南北のライン(四ツ目通り)は、先ほど書いたとおり、1944年に空襲対策で東側5メートルの建物が解体された通りです。
この写真の下半分あたりが戦時中の本所区。そのさらに下側(南側)が深川区になります。
冒頭に紹介した東京都慰霊堂は、錦糸町駅の西隣(写真の左側)の総武線両国駅の近くにあります。
1945年3月10日の東京大空襲は、第一目標を深川区に、第二目標を本所区に設定して行われました。
深夜ですから、B29からこのような景色は見えなかったでしょうが、そこには多くの人々の生活がありました。
写真でみるとおり、今でも小さな住宅が密集した地域です。
当時の木造住宅だらけの下町に大量の焼夷弾が落とされたため、父の姉弟を含む多くの人々が命を落としたのです。
3年前の長崎出張の時は、旧中川の印象的な形やスカイツリー近くの街並みがきれいに見えて胸躍らせましたが、今改めて東京大空襲のこと思うと、その景色は全く違ったものに見えます。
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世の中や街の姿は大きく移り変わっていきますが、東京のお盆にあたり、昔を振り返って父の姉弟の悲劇や祖父・祖母の嘆きに思いを馳せ、自分の胸に刻みつけました。
東京大空襲をはじめ先の戦争で亡くなられた敵味方を含む全ての方の魂が安らかに眠ることを心からお祈りしたいと思います。
また、今も続くウクライナをはじめとする各地の戦火が1日も早く収まりますように、心から祈念いたします。
そして、身近なところでは、90歳を過ぎた父母の息災を心から祈っています。
いろいろなことを考えた東京のお盆でした。
【今日のBGM】
ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」、第5番
フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル
有名なドイツの指揮者フルトヴェングラーの「戦後復帰演奏会」ライブです。
先の大戦は、本文で書いたとおり、庶民の命や生活を根本から脅かし、時には奪いました。
日本と同じ敗戦国のドイツでも、ベルリンをはじめ多くの街が灰塵に帰し、人々はゼロから再出発することになりました。
指揮者フルトヴェングラーは、大戦中ドイツにとどまったため戦犯容疑をかけられましたが復帰を許され、1947年にベルリン・フィルのコンサートで再び聴衆を魅了しました。
このCDはその復帰演奏会の模様です。
貧しい録音ですが、演奏者の再び演奏できる喜びや、聴衆が音楽の感動を求める思いに溢れていると思います。
本文の東京大空襲の話とかを踏まえてこの演奏を聴くと、当時これを聴いていたのは心に深い傷を負った人たちだったのだろうなと思います。
戦後復興というのは、そうした深い傷の中から、それを乗り越えて進んでいったのですね。
あれから80年近くが経とうとしているのに、まだ世界のあちこちで続いている戦争。
東アジアでも高まる国際的な緊張。
戦争への反省とともに、安全保障の現実を直視せよという声。
戦争の経験や戦後復興の歩みを踏まえながら、我々自身が今考えるべきことは本当にたくさんあると思います。