Matiss になるまで 3 2024,5,27. 6:03 | 銀河との対話

銀河との対話

銀河との対話 by Matiss

Matiss になるまで 3

 

(前回より2週間以上が経過してしまいました)

 

19歳の私は自殺を決意していましたが

大野一雄という舞踏家に出会えたことで

この人から学んでみようと思い

一命をとりとめました🙏

スイス人のダンサーに聞いた

横浜の稽古場の住所を頼りに

感動の出会いから三日後

大野一雄舞踏研究所へ行きました

 

最初に稽古場へ行った日は忘れられません

 

今のように

インターネットというものが

無かった時代です

 

若い方には想像もできない日常かと思います

 

情報というものは

雑誌や本などの紙媒体か

人から教えてもらう口コミしかありませんでした

(もちろん、一般的なことは

TVや新聞という媒体で流通していました

今や、それが洗脳の道具だったと判明していますけれど)

 

ですので

直感だけが頼りなのです

Google先生もいなければ

Google map もないです(笑)

 

何が待っているのか?

ほとんど情報がなく

半分は、生きて帰れるのか?

くらいの覚悟がないと行けないような

本気さが必要でした

 

埼玉の田舎から電車を乗り継いで2時間

教えていただいた横浜の小さな駅で降り

迷いながら歩いて坂道を上って行きました

 

途中、トンネルがあり

誰もいないトンネルを歩くのが

人生初めてで

とても怖かったのを覚えています

 

そして、教会の奥にある

細い細い竹藪沿いの道を通り

階段を延々上っていく

 

すると普通の民家の入り口に

表札で「大野」と書いている家に辿り着き

家の横にある木造の建物へ入って行く

 

アルミの扉をおそるおそる開けると

例のスイス人のダンサーと

日本人女性が 

二人でコンタクトインプロビゼーションを

していました

 

私を見るなり

「やあ」と動きを止めて

「あの奥で着替えたら良いよ」

と教えてくれました

 

私は「は? 着替え?

ここは研究所だからレクチャーじゃないの?」

という感じでした

 

開始時間の夜20時に向けて

続々と

静かにやってくる寡黙な人たち

日本人もイタリア人も

スペイン人、アルゼンチンの人も

いました

 

全員がダンサーでもなく

私には全員が探求者に見えました

 

そして

普段着の大野一雄が下の母屋から

やってくる

 

小さな目は爛々と輝き

喜びに溢れています

 

そしてみんなを見回す

それぞれが心地よい場所に座り

大野一雄が話を始めるのを待っている

 

大野一雄は

3日前、池袋のスタジオ200で話していた通り

延々と楽しそうに

「雑草」の話をしている

これが1時間続く

 

何を話していたのか?

この広い庭の草むしりが

4世代で暮らす大野一雄の

家族の中での仕事でした

 

その雑草に向き合っていて

自分に見えてきたことを延々と語る

そして、自分が踊りを始めることになった

アルゼンチンの舞姫、アルヘンチーナの話

その頃、先生が傾倒していた

画家、曾我蕭白と伊藤若冲の絵の話

(今でこそ若冲は大人気となりましたが

1990年ごろは誰も知らない画家でした

辻惟雄先生が、時々稽古場へ来られていました)

 

みんな大野一雄の話に引き込まれているので

あっという間に1時間がすぎた頃

 

突然、大野一雄が

「さっ、では今日はこの蕭白の『柳の下の鬼女』を

今からみんなで踊ってみましょう」

と言いました

 

私は

「えっ??  踊る??  う〜ん

ちょっと見学させてもらおう

そんなつもりで来ていないし

第一、踊るって?何も知らない私だし

でも、今日ここまで来た意味は

一緒に稽古場に立ってみないと半分しか味わえないな〜

めずらしくジーンズで来たのだから踊れるかな」

 

ということで

超ドキドキしている自分の内心に向き合いながら

そのまま、稽古場に 

皆さんに紛れて立ってみました

 

マネージャーさん&照明家の溝端さんが音楽をかけてくれる

稽古場の照明は最低限の明るさにまで落とされる

 

周囲の皆さんは慣れたように

そうっと身体を動かし始める

 

私は。。。

「動けない」

どうやって動いて良いかわからない

 

大野一雄:はい。  みんな自由に踊っていいんだよ。

お母さんのお腹にいると想像してごらん。

安心してとっても気持ちいい。

そう。そう。

 

海外のダンサーたちがいわゆるダンスをし始めると

 

大野一雄:踊りっていうのは

指一本動かすのでも

そこに命が宿っていないといけない

こうやったら格好いいでしょ!なんていう動きは

誰も見たくないですよ。

あなたの魂が動きたいように

動いてみなさい

内面凝視

魂が先に感動して動いて

そこに身体がついていく

そういう踊りをしてごらんなさい

 

私は

言われること全てが初めてのことば

アプローチだったので

??? となりながら

素直にそのように自分で感じてみました

 

私の魂って???

みぞおちの奥深くにある

 

そんなことを感じてみるのは

初めてでした

 

みぞおちが息苦しくなって

グーっと締め付けられることは

何度もあったけれど

 

その同じ場所に

本当の私がいるの??

 

全く動けないまま突っ立って

50分ほどが経過し

いよいよラスト10分

 

大野一雄:最後に思いっきり踊ってごらんなさい

あなたの魂は「鬼女」になるくらい

狂うほど苦しい

狂うほど悔しい

かもしれない

狂うほどにどうにもならない

子供が先に死んだ母親の苦しみを想像してごらんなさい

 

*おすすめ:珠玉のことば集

大野一雄 稽古の言葉

 

 

私はようやく手の先

指一本をゆっくり動かしてみました

すると、、、、

空間がごろんとひっくり返ったのです

確実に 自分の生きているマトリックスが

何か大きく動いたのです

 

そこから、やはり指だけでしたが

いろいろに動いてみました

 

面白い

 

全てはこんなふうに繋がっているんだ

身体を動かすことによって

生きる問い

みたいなものを探求できる

という初めての体験でした

 

大野一雄:はい

今日はこれくらいにしましょう

 

では みんなここにお菓子があるからね〜

 

それから、稽古場で

紅茶が振る舞われ

缶に入った

「そばぼうろ」が振る舞われる

 

みんなまだ自分の内側と繋がったままなので

寡黙である

 

思い想いに自分の内側の世界の余韻を堪能しながら

ひっそり紅茶を飲む

 

稽古が終わると夜10時

横浜の田舎から埼玉の田舎へ帰る電車はない

東京で一人暮らしをしていた姉の家に

泊めてもらう

 

新宿から京王線に乗り

夜道を歩いて姉のアパートへ行き

一緒に銭湯へ出掛けていく

 

全てが未知の体験であり

不思議な甘美さを秘めていました

 

そんな19歳

 

ようやく自分が本当にやりたいことが見つかった

 

それから週3日ある

大野一雄の稽古へ

私は1日も休まず通うことになりました

 

毎回

他の何を差し置いても

私にとってはかけがえのない時間でした

 

その時間だけが

今度は

「私の魂が生きている時間」

となりました

 

大野一雄による

神秘思想(スウェデンボルグ、ウィリアムブレイクetc)

夢を元にした作品作り

魂にとことん向き合う稽古

内面凝視、心身脱落を

し続ける稽古

 

世界中から集まってくるダンサーや芸術家

哲学者や文筆家が集まる

その稽古場での

交流は

その後の私の方向を決定することになりました

 

週3日の稽古を生き甲斐に

通い続けて約1年

同じ稽古場に通う男性とお付き合いが

始まりました

 

それから大野一雄の付き人という

大抜擢のお声が

なぜか最年少の私にかかりました

(研究生は28歳〜30、40代の方がメインで

上は50代、60代、70代までいらっしゃいました)

 

さ〜 そこから

2年を終えた大学を退学して

東京のアパートを引き払い

両親へ

浪人までさせてもらって退学とは

本当に申し訳ないけれど

「大学には私の興味をそそるものが何もなかったこと

大野一雄の元での学びが唯一真実だと思えることなど」

を涙ながらに綴った長い手紙を渡しました。

 

「勘当」を言い渡されると思っていましたが

父が寛大で、認めていただき

両親二人で応援してくれました

(私の家族は大野一雄の踊りは理解できなかったけれど、

NHKに出ている偉い先生らしい。ということで信頼してくれたようです🙏)

 

当時、まだ

一流大学→ 良い企業へ就職→ 一生安泰人生

という「謎の神話」がしっかり存在していたので

これは私にとっても

清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要でした

 

何の保証もない道へ

すべてを託したのです

 

当時の私の魂が望むものは

大野一雄の稽古と舞台だったからです

それだけが生きる糧のようになっていました

 

付き合った男性は物書きさんで

ここから28歳の美容師修行を始めるまで

壮絶な恋愛体験と愛憎劇を体験しました

 

稽古場近くにそれぞれアパートを借り

毎日、彼が生み出した「詩」や「物語」が

私のアパートへ届き

私はワープロで清書&素人ながら添削する日々

それを今度は彼が持ち帰り

修正して完成させる

 

日本文学科 中退なのに

ほとんど文学書を読んでいなかった私へ

彼が出したお題は

世界の名文学100冊を読む

というものでした

手書きで目録を作ってくれて

本当に全てを読破しました

 

特に好きだった

トーマスマンの「トニオ・クレーゲル」

この薄い文庫本はいつでも鞄に入れて

電車の中で繰り返し読みました

(乱雑な宙吊り広告の周波数から逃げる

私なりの方法でもありました)

 

ヘルマンヘッセの「デミアン」、「シッダールタ」、「ナルチスとゴルトムント」、「庭仕事の楽しみ」

 

ドストエフスキー「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」

 

日本文学はもっぱら谷崎潤一郎と夏目漱石です

特に谷崎の「細雪」の日本語が大好きでした

これらを何度も繰り返し読みました

 

この頃の読書のおかげで

こうして日本語の文章を書けるようになったのだと思います

 

私は詩集を手作りで私家版100冊を製作

(3年以上を費やし手縫い綴じ&布装本)


その後、彼の本を水声社さんから出版していただきました

世界は蜜で満たされる 一行物語集

スタートから9年目

次なるワタシ&アナタへ移行するために

パートナーシップを終了しました🙏

 

そんな私生活を送りながら

週3日は

大野一雄の稽古へ通う

二人ともにとって

やはりこの時間が宝石みたいな時間でした

 

海外のダンサーたちとの交流もかけがえのないものでした

朝まで語り明かした楽しい青春時代でした

 

付き人としてスタッフになってからは

舞台作品の制作過程の全てを

共に体験させてもらう

濃密で貴重な時間でした

 

ものづくりがうまく進まない時の

苦しさや重さ

しんどさみたいなものも

たくさん体験させていただきました

 

そして私の直感力が鍛えられるスタートが

まさに大野一雄の付き人をさせてもらったことでした

 

先生は

「あんた、アレ」

としか言ってくれないのですよ

 

現役ダンサーといっても

すでに85歳以上のおじいさんですから

 

あの衣装を取って欲しい

あの本を取って欲しい

老眼鏡を・・・

となるわけです

 

子供のように にこにこした笑顔で

目を覗き込んで

『あんた、あれ』と言われると


「先生、あれって何ですか?」

とは聞き返せないのです

 

それで、その時に

私が自分の内側に立ち返ってパッと閃いたものを

先生の元へ持っていく

ということになりました

不思議とだいたい当たっていました

 

これは、40代に入ってから気づきましたが

いわゆるテレパシー能力の訓練ですよね?

おかげさまで

美容師時代、お客様が髪型をどうして欲しいのか?

人が何を望んでいるのか?

だいたいわかるようになっていったのです(笑)

 

美容師歴15年にもなると

賀茂川まで徒歩1分の美容室だったこともあり

海外へ出かける友人たちの

ワンちゃんや猫ちゃんを一時預かるようになり

彼らが何をして欲しいのか

全てわかるようになってしまいました

 

その通りにしていたら

すぐに尻に敷かれて私が下になってしまい

今でも動物が飼えない理由はココです

彼らは人間と違って

壁を隔てていても

テレパシーで全て送ってくるので

私はまったく休めなくなるのです〜(笑)

 

今ではその能力もさらに磨かれて

周波数でキャッチして、周波数で理解する

という細やかなものになっています

 

それで初めは

ヘアカットでだんだん周波数調整までできるようになり

今は「ワンネス1000次元統合 変容セッション」という提供に

52歳でたどり着きました(笑)

 

面白いですよね

19歳で自殺寸前だった私が

大野一雄の付き人になり

「あんた、あれ」

しか言ってくれなかった師によって

直感力が鍛えられた

ということです

 

さて大野一雄の話に戻ります

 

20歳の時

大野一雄 全米ツアー2ヶ月半に

連れて行っていただき

私は衣装係として12個のスーツケース+

青い馬 を飛行機から飛行機へと

管理する責任者でした

 

本番前は 楽屋を整え

お嫁さんの大野悦子さんの元で

大野一雄の白塗りを毎夜 

塗っていました

 

 

お顔作りは

大野一雄本人が必ずしていました

 

1時間半を踊り終わった

85歳の手は

いつも限界状態で

大野先生の手は 突っ張ってしまうのです

その手に筋肉疲労のバンテリンを

塗らせてもらっていました

(今思うと、使い続けたくない鎮痛剤が入っていそうです💦)

 

舞台の出来は

「ラ・アルヘンチーナ頌」「睡蓮」「花鳥風月」

の3作品、全15公演でしたので

それぞれでしたが

 

どこへ行っても観客が満員で

拍手喝采

泣いてしまう人が必ずいらっしゃいました

 

一番忘れられないのは

シアトルの「睡蓮」ですね

300名くらいのホールだったと思いますが

黒幕の袖に控えている私たちが

最もひやひやした舞台でした

 

というのも

先生が衣装替えをする時

5回以上 舞台の袖にいったん引っ込んでくるのですが

舞台には上手と下手があり

全て逆に 先生が引いてくるのです(笑)

 

上手(舞台向かって右側)と下手(左側)に

スタンバイしてあった衣装や靴、帽子

それら全てを

そのたびに

私たちは足音を立てないように

そっと黒幕の裏側で小走りに運ばなければなりませんでした

 

でもチラ見しかできない

先生の踊りが

今までに例がないほど

生き生きとして輝き

伸びやかに気持ちよさそうなのは

伝わってきていました

 

音楽と身体の動きが微妙にずれている

最高のタイミングってわかりますか?

全てがそのように踊られているようでした

 

何か大変なことが起こっている!

 

大野一雄はいつも

「頭で考えたって、そりゃあ あんた、たいしたことないですよ。

誰かがやったことを真似しても意味がない。

あなたの魂が本当に望むことだけをやりなさい。

ハートから動くんですよ。

足から動くダンスなんて、そんなのダメダメ」

と手を振って言っていました。

 

一応、大枠の動きが決まっている舞台作品

しかも近年 一番踊っている「睡蓮」で

言葉は悪いけれど

こんなでたらめになっているのは

何かが起こっている としか思えない

そんな感じでした

 

全てのダンスが終わると

無音の後に

割れんばかりの大拍手


300名の観客が総立ちで

スタンディングオーベーション

拍手がいつまで立っても鳴り止まない

30分以上続いたと思います

 

何かすごいものが生まれてしまった!

その現場に立ち会わせてもらえたという

今世の中で一番の奇跡を見た瞬間だったかもしれません

 

NYではGrateful Deadのリーダー

ジェリー・ガルシアバンドの郊外Liveへ

スタッフ一同で駆けつけ

ヒッピー文化に圧倒されながらもスタジアムで体験

あやうく宿へ帰れなくなることろでした

 

翌日はなんと、、大野一雄のNY公演に

ジェリーが彼女と観に来る

という夢のような流れにスタッフ一同盛り上がり

楽屋でみんなで写真を撮りました

(私の手元にはないの〜💧シャッターを切ったのが私でした)

大野先生は誰よりも普通

ジェリーの方が恐縮していました

 

LAでは 唯一の休日に

ハリウッド郊外で

ボブ・ディランとサンタナの野外Liveがあると聞いて

劇場のアメリカ人スタッフさん達と一緒に

駆けつけました

 

遺された大野一雄が踊っている動画は

どれを見ても 私を納得させるものはなく

 

というのも

大野一雄の表現は

伸ばした手の先30~100メートルくらいのところに

あると感じていたので

(もしかすると天と地球の中心までですね)

仕方がありません

 

そんな中でも

大野一雄を愛してやまなかった

スイス人の映画監督 ダニエル・シュミットさんが

撮られたこれらの映像だけは

かなりのものを捉えてくれていますので

ご興味ある方はぜひ見てみてくださいね

私も撮影現場に居させていただきました

 

大野一雄 「書かれた顔」by ダニエル・シュミット

 

4年間にわたる大野一雄舞踏研究所での学びは

新しい作品制作が始まると1〜3ヶ月間

私生活が全くない状態に入ります

 

世界中から訪れてくる

著名な芸術家たちの接待のために

私はすぐ出動となるので

いつ何があるかわからないという感覚で

日常を過ごしていました

極貧生活もこの時に楽しみました(笑)

 

スタッフといっても

生活費が出るのは海外にいる時だけでしたので

読めないスケジュールの中

自分で稼がなければなりませんでした

 

自由がきく ということと

短時間でそれなりの金額ということで

お掃除のバイトもしました

 

新宿の高層ビルの窓拭きで

ロープ2本で吊るされてみたこともあります

(これ、親がみたらショックだろうなと思ったのを覚えています。お父さん、お母さんごめんなさい。)

 

面白いのは

英語が大の苦手だった私が

どうやって、海外からの研究生や

海外公演でコミュニケーションを取っていたのか?

という部分です

 

結局

笑顔とボディーランゲージとちょっとしたテレパシーのみで

乗り切ってしまいました(笑)

 

ですので皆さん

不得意があるのも良いですよ

他の能力を総動員するしかないですからね

 

自信を持ちましょう🎵

 

私も人様のようにできないことが多いおかげで

このようなことになっているのだと思います

 

刺激の多い4年間の

大野一雄舞踏研究所での生活も

終止符を打つことになります

 

横浜の上星川で過ごした

全ての時間が

私のベースを作ってくれました

大野家のご家族には本当にお世話になり

子守りをさせてもらっていたお孫さんも

もう30代でしょうね

奥様の大野千恵さんは

今でも私の癒しの聖母です

どれだけ手料理を食べさせてもらったことか

菊菜とホタテのかき揚げが一番好きでした

大野一雄の手料理は

鮭の粕汁などを食べさせていただきましたね

息子の大野慶人さんはいつもスパゲッティーを

作ってくださいました

 

大野慶人さん、悦子さんにも

本当にお世話になりました

兄弟弟子でもあり、先生でもあり

不思議な関係で

ストレートにぶつかる時もありました

慶人さんとの想い出も

またいつか綴れたらと思います

 

大野一雄はあまりに偉大でした

大樹の元では樹は育たぬ

それもわかってきた頃でした

(京都へ引っ越してからも毎年

お正月には大野家へご挨拶へ伺い、寝たきりになられた大野一雄に会いに行き続けました)

 

離れた理由としては

あまりに疲労が激しいこともわかってきました

エネルギーでもサポートしていたのでしょうね

 

あとは、老いていく先生

朽ちていく衣装や靴たちに寄り添うのが

辛すぎた 悲しすぎた というのも

ひとつの理由だと思います

 

全ては流れていくもの

という当たり前の宇宙真理が

若い頃の私には

受け入れきれなかったのだと思います

 

そこからプライベートでも

パートナーシップを一時解消し

実家へ引きこもって

和裁師への道を歩み始めることになりました

 

この頃です

四畳半の部屋で

ずっと籠り続け

夜、寝ると

毎晩

とても美しくて清浄なそよ風の吹く

お花畑へいつも帰っていました

 

そこだけが私の居場所となり

その世界に居続けたいために

引きこもっていました

この場所がどこだったのか?

いつか解明されると良いのですけど

 

時々、言葉が

宇宙から降ってくるようにもなっていました

 

両親はさぞかし心配しただろうと思います

本当に申し訳ないと

今でも思います

でも、そんな私を遠目にそっと見守ってくれていた

母と父には 

今でも感謝しかありません

 

今日はここまでにいたします。

今回も長文をお読みいただき

ありがとうございます。

 

【Matissによる】

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