私たちは宗教を通じて、神様の存在を知ることが出来ると思っています。

しかし、宗教は教えや組織の基本理念だったりして、下手をすると洗脳の場合もあります。

 

個人のレベルで神聖な存在と繋がると、そこには安心感が生まれます。

それは、偶然という形で出来事を体験させてくれたり、厳しい学びを経験させてくれたりします。

苦しいときは、一緒に寄り添ってくれています。

しかし、私たちはそれを感じないように、エゴがフィルターを作ります。

 

また、宗教という概念が聖なる存在と繋がるハードルになっていたりします。

 

宗教戦争をウィキペディアで調べてみると、

宗教戦争は、宗教上の問題が原因で生じた戦争紛争のことである。単に宗教戦争と言った場合には1517年宗教改革の後、16〜17世紀にヨーロッパ各地で起こったキリスト教の新旧両派間の戦争を指すことが多いが、それ以外に多数ある宗教問題が原因の戦争や紛争も同じカテゴリに分類される。

 

と、記されています。

 

では、宗教を調べてみると

宗教は、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり[1]、また、その体系にもとづく教義行事儀礼施設組織などをそなえた社会集団のことである[2][3]

 

と記されています。

 

斉藤 一治さんが、FBの投稿で以下のように伝えていました。

 

地球原住民は皆んな

万物に霊が宿るアニミズム(多神教)でした。

一方

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの「一神教」は、「Religion」と呼ばれ、これが明治になって日本に侵入し「宗教」と偽訳されました。

本来「Religion」とは、 Re (再び) ligion(一体になる)という「ラテン語」です。

元始、地球原住民である人間は神と一体でした。

しかし、アダムとイブが「悪魔」(蛇)に誘惑されて、神に背き、禁断の木の実を食べて「原罪」となりました。

この「原罪」を犯し、彼らは神から離れてしまったため「エデンの園」から追放されました。

つまり、「原罪」を犯し、一体であるべき神から離れてしまった人間が、再び、神と一体になるために必要なのが「Religion」です。

日本人の祖先も我々も「原罪」を犯してはいません。

我々日本人は、今でも「八百万の神」と一体です。

日本の「神道」や「仏教」は、

江戸時代までは「随神(かんながら)の道」「自然の教え」「信仰」「仏の教え」「お釈迦さまの教え」と呼ばれていて自然な日常生活に密着した「習慣」「生活」そのものでした。

それが、明治になって侵入してきた、一神教である「Religion」の範疇に強制的に入れられてしまいました。

つまり、「原罪」を犯していない日本人には「神道」や「仏の道」だけで充分であり、「Religion」は必要ありません。

そもそも、私たち日本人には「悪魔」という概念が、存在していません。

「神」と一体である日本人には「悪魔」が入り込む隙がありません。

一方、西洋では、世界最古の叙事詩と言われる「ギルガメシュ叙事詩」のテーマ「森の神・フンババ殺し」「神殺し」から、人間は「神」と離れ、「原罪」を犯して「悪魔」に取りつかれてしまいました。

この主人公であるギルガメシュは、紀元前2600年頃、シュメールの都市国家ウルクに実在した王です。

この「Religion」は「一神教」ですから、異なった「Religion」の信徒を排斥します。

その根源は、砂漠の民がその厳しい風土の中で獲得していった、特有の「憎悪」「妬み」「攻撃」「復讐」です。

西洋の歴史は、「悪魔」と「神」との戦いの歴史であり、「悪魔」が勝利してからは、「Religion」の名の下に実行された「排斥」つまり「大量殺戮」の記録に過ぎません。

つまり、日本人が幕末、明治以来、受け入れてきた西洋文明は、悪魔が神に反逆し、神を殺害し、神に摩り替わったものです。

更に言えば、悪魔が取りついた自己、これが私たちに与えられている「個人主義」の本質です。

「神に対する反逆」これこそ「Conspiracy(コンスピラシー)」です。

「Conspiracy」の日本語訳は「陰謀」となっておりますが、これも偽訳です。

「Conspiracy」は本来、人間が侵すことができない神仏の仕組みの破壊をする人間の意思であり行動です。

つまり、西洋文明の本質は「Conspiracy」です。

ですから「西洋」は

「今でも八百万の神と一体である日本」の存在を許すことができないのです。

戦後、

「Conspiracy」そのものの占領軍は、神国・日本を徹底的に破壊する「洗脳」を本格化して今日に至っています。

私たちは、民主主義、自由・平等、個人主義、人権など、一見、甘ったるいが、

実際は麻薬に過ぎない美辞麗句に躍らせられていてはいけません。

 

 

○○教徒も、△△教徒も平気で人殺しをします。

宗教は集団を作った人達のエゴで固まっています。

人々を苦しめるのは神ではなく、悪です。

 

戦争は考えの対立であり、人々が死んでも続きます。

そういう事をいつまで続けていくのでしょう。

 

私が神様から教えてもらったことは、個人の苦しみが世の中の苦しみを作り出すということでした。

ですから、個人のレベルで苦しみからの解放が起これば、世の中の苦しみはなくなります。

ここに、宗教的な集団は不要です。

人々が、それぞれに個人のレベルで神と繋がれるからです。

 

神と繋がれれば、苦しみからの解放が起こります。

苦しみから解放されているプロセスの中で、神と繋がります。