「CITY ROAD」の日々⑨広告営業②バブルの影響 | con-satoのブログ

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 雑誌「CITYROAD」で働いた20代後半から30代前半。20代後半の頃は世の中バブルの真っ盛りだった。長期低落傾向の只中にいた映画界は、バブルそのものの影響はないけど、それでもタイアップなどでは金銭的には良い影響もあった。弱小媒体も、そんな時代の恩恵を少しだけ受けた。

 一番の驚きは学園祭シーズンに大型出稿があったこと。東芝のカラー10Pのタイアップ記事が学園祭企画として発注された。代理店はまだ新橋駅前にあった旭通。旭通雑誌部と「CITYROAD」とは奇妙な関係があった。それは電通独占だった東芝の雑誌の扱い。それが、その数年前の「CITYROAD」への出稿をキッカケに旭通の扱いが始まったそうだ。

 そんな関係もあったので、久しぶりの東芝の出稿、しかも大型発注を、当時の旭通の雑誌部の部長が喜んでくれた。(企画の中には当時、圧倒的な男子人気だった森高千里のインタビューもあり。青山にあった事務所に伺い1時間ほど時間を頂いた。代理店の男子たちに「役得!」と羨ましがられた!)


 発行部数の減少(やや横ばい)にも関わらず、出稿があったのは世間の景気が良かったから。そのうちに産経新聞の広告局からタイアップの話が来た。10段の記事を作り、下の5段に純広を入れるというのだ。当時、産経は創業一族の鹿内氏が社長になり、カラー化を促進。2強2弱(朝読と毎産)といわれた新聞界での産経の地位を向上させようと営業にも力を入れていたのだ。

 そのうちスポーツニッポンからもタイアップの企画があり。こちらは毎週週末にカラー15段のエンタメ情報を載せるという企画だった。企画料は毎週50万円。スポニチには、はした金かもしれないけど、貧乏媒体には恵みのお金になった。

 通常の広告営業に新聞各紙のタイアップ。正直、目の廻る日々だったけど、企画を通じ、やや編集的な仕事が加わり、自分が思い描いた仕事の姿に近づいて来た。