関西の音楽活動グループConceptusです。
8月の2回に渡る「フィガロ」を目の前に、
その作品解説を掲載致します。
いつもカットされるアリア
オペラというのは、昔の作品になればなるほど長いものです。
そうした長い作品は、部分的にカットを施して、
少し短くして上演することがありますし、
そんなやり方でも「全曲上演」と銘打って上演されます。
しかしそのカットは、単純な繰り返し部分とか、
ちょっと間延びするところとか、作品の本質、根幹の大事な部分には
関係のない部分に対して行われるものです。
しかし、「フィガロの結婚」の4幕においては、
大事なことを言っているのにカットされることが多い曲が2曲あります。
それが、前回ご紹介した女中頭マルチェリーナと、
音楽教師バジリオのアリアです。
確かにこの4幕、
バルバリーナのカヴァティーナ(小さなアリア)から始まり、
マルチェリーナ、バジリオ、フィガロ、スザンナと
5人もアリアが続きますから、観ている方はしんどいとか、
マルチェリーナとバジリオのアリアはあらすじに関係ない
という理由をつけてカットされることが大半で、
カットせずにやろうものなら、わざわざ「ノーカット上演」と
肩書をつけての上演をされることがよくあります。
でも、そんなのは私は断固拒否します。
この2人のアリアには典拠があります。
マルチェリーナのアリアは、ボーマルシェの原作においては、
裁判のシーンで、フィガロとの親子関係が判明した後で、
この封建制度、アンシャン・レジームの世界において
どれだけ女性が差別され、虐げられ、
義務は一人前以上、権利は子供以下の状態が強いられているか、
ということをマルチェリーナが演説するところがありますが、
それに基づいて書かれています。
前号(新島公演メルマガ)のインタビューで、
マルチェリーナ役の水野さんが、
「自由」という言葉にコロラトゥーラの音型が与えられていて、
華やかに音が動くと書いてくれていますが、
それはアリア前半のこと。
後半では「酷い仕打ち」という言葉に
コロラトゥーラが与えられています。
「野獣であってもオスとメスは仲良くするのに、
人間の男はなぜ女を虐げるのか」というメッセージが
痛いほど伝わってくるアリア、
それがマルチェリーナのアリアなのです。
そしてそれは、女性として、またフィガロという息子を持つ母として、
現代でも立派にメッセージを発する意義を
失っていないアリアなのです。
一方バジリオのアリアは少し典拠の形式が違います。
内容もさることながら、その後に誰のどんなアリアが置かれているか、
ということが大事なのです。
というのも、原作における、
ここに該当する箇所にはバジリオのメッセージは
置かれていないからです。
このオペラにおいて、バジリオの後に来るのは
フィガロの大アリアです。
女性に対する不信感の表明で、
原作においてこのアリアに該当する箇所には、
確かにフィガロの大演説があるのですが、
内容はオペラとは随分違っています。
政治問題の演説なのです。
貴族に対して、あんた達と自分達と、一体何が違うというのか?
という、当時は絶対とされていた身分社会への
抗議のメッセージが含まれた長広舌を繰り広げています。
この作品をオペラ化するにあたり、上演許可をとるために、
台本作家ダ・ポンテとモーツァルトは政治色を取り除きました
・・・一見ですが。
その代表となる箇所が、この4幕のフィガロ大アリアです。
政治問題を女性不信表明に置き換えたのです。
それだけなら政治色の払拭ですが、モーツァルト達はその直前に、
原作にはないバジリオの信条表明となるアリアを置きました。
「ロバ(つまりバカ)の皮を被って、
お偉方に逆らわず生きるのが賢明というものだ」という歌詞です。
当時より200年も前に歌われたなら、
それは単なる人生訓だったかもしれません。
しかしフランス革命の3年前のことです。
お偉方が必ずしもお偉方であり続けられるとは
言えなくなってきていて、
それがためにウィーンでは原作の芝居が上演禁止になっていた
という状況下での、このアリアの歌詞なのです。
自ずからこの歌詞の内容には条件がつきます。
「お偉方がお偉方である限りは」と。
裏を返せば、ある日お偉方でなくなったその時には、牙を剥きます、
という意思表示でもあるわけです。
これが政治でなくて何でしょう?
モーツァルト達は政治色を払拭したのではなく、
巧妙に隠したにすぎません。
これら2つのアリアは、
ダ・ポンテやモーツァルトといった弱者からの痛切なメッセージです。
