心理的なレベルでは、どんな蓄積も必然的にその反対のものをつくりだすに違いありません。たとえば、私は知っています、そして、私は知りません。そして、私は知りませんので、それについて知らなければなりません―それゆえ、私は私が知っているものを私が知らないものと比べます。それは二重性であり、それゆえ、葛藤なのです。私は私が知らないものを私が知っているもので測っているのです。
質問者:瞑想は全体的な生き方でしょうか?
クリシュナムルティ:明らかに、そうです。しかし、瞑想を理解するためには、人は観察しなければなりません。あなたは、どんなふうにあなたが木を見るのか、あなたと木の間に、観察者と観察されるもの、それは木ですが、の間に空間があるかどうか、観察しなければなりません。どんなふうに、その空間は生じるのでしょうか? 空間は、観察者がその木についての彼自身の記憶を持つので、生じるのです。あるいは、観察者が彼自身を貪欲から分離し、そして、‘私は貪欲ではありません。そして私は貪欲を免れなければなりません’と言うときなのです。そして、観察者と観察されるものの間に空間があり、そのとき葛藤があるのです。しかし、観察者は観察されるものです。なぜなら、彼は、貪欲であり、‘私は貪欲であってはならない’言い、したがって、二重性を引き起こすからです。それで、瞑想は、あなたがどうやってそれをするかを知るなら、最も並外れたものなのです。そして、あなたは誰からもどうしても学ぶことができません。そしてそれがその美しさなのです。それはあなたが学ぶ何か、技術ではありません。したがって、ひとつも権威はないのです。したがって、あなたがあなた自身について学び、あなた自身を注意して見守り、あなたの歩き方、あなたの話し方、どんなふうにあなたが食べるか、あなたが言うこと、噂話、憎しみ、嫉妬を見守るなら。あなたが何も選択なしにそれに気づいているなら、そのすべては瞑想の一部です。そしてあなたが行くとき、あなたが旅をするとき、その動きが続くとき、そのすべての動きが瞑想です。その時その動きは終わりがありません、初めも終わりもありません。