ファミリーヒストリーを書くに当たって、父が言う「士族」がネックでした。
父が生まれた町は長崎県南島原市北有馬町というところです。
その町には日野江城跡があります。
日野江城は1616年廃城になっています。
お城もない、殿様もいない町で、どうして武士がいたのか、士族がいたのか、が疑問でした。
 
これを解くには島原半島の歴史を知らなくてはなりません。
日野江城は鎌倉時代、1213年~1219年に藤原経澄によって築城されています。後に有馬氏に改名します。
主な城主に有馬晴信がいます。晴信はキリシタン大名として有名です。しかし、1612年岡本大八事件(疑獄事件)によって切腹しています。
そのあとに入城したのが、松倉重政です。
松倉重政は日野江城を手狭に感じ、廃城して、島原に島原城を築城します。
日野江城の支城として、隣村の南有馬に原城が1496年有馬貴純によって築城されていました。
松倉重政は日野江城と原城の石垣などを島原城築城に持って行き、日野江城も原城も1616年廃城になります。
松倉重政は領民に重税(年貢)を課し、キリシタンの弾圧を強行しました。重税にあえぐ領民とキリシタン弾圧に追い詰められたキリスト教徒が一体となって起ったのが「島原の乱」。
いわゆる「原城一揆」です。一揆軍は廃城となった原城に立て籠もり戦います。一揆軍を抑えることができなくなった松倉は幕府に援軍を求めます。最終的には幕府から派遣された松平信綱が総大将となり、総攻撃をして鎮圧しますが、このとき37000人が全滅しています。島原半島の南地方は一人もいなくなります。
ただ一人絵師の山田右衛門が生き残りますが、ここら辺の詳細は堀田善衛の小説「海鳴りの底から」を読むとよく分かります。
島原の乱の主因者である松倉重政は大名としては異例の斬首を命じられます。
島原の乱後、幕府は島原南地方に西国、九州各地に入植者を募ります。
そうして西国、九州各地から入植してきた人々によって、島原藩領民として再生していきます。
遠くは瀬戸内海の小豆島から移住してきた人達によって、素麺製造の技術が普及していきます。南島原市有家町や西有家町には素麺製造業者が現在も多いです。これが「島原素麺」の元祖です。
武家は大名に仕官して俸禄をもらい、生活しているのですが、お城もない、殿様もいない北有馬に武家、武士が存在することが疑念でした。島原の歴史を調べていく中で、「島原の乱」後に西国、九州各地の武士も移住してきたのだ、という事実に至りました。
私の先祖は島原の乱後の移住者なのです。
武家の証として、享保8年に建立された墓が現存しています。
「羽柴家累代之墓」と刻まれた大きな屋根つきの墓です。
名字があるということは武家であり、墓の大きさ、墓地の位置(菩提寺の裏山の一番高い場所)、父の生家の場所から推察するに、武家を裏付けるものです。家系図もあったそうですが、大阪の空襲で焼けてしまったそうです。父が14代、弟が15代目になります。
父は、我が家は300年直系で続いた家柄だと自慢していました。
このファミリーヒストリーを書くうちに、やっと「士族」の謎が解けました。時代錯誤的な思考と笑われそうですが、父が大事に守り続けた「士族」の誇りと矜持は私や兄弟にも受け継がれております。
父は私に人間としての生き方をいつも教示していました。
”人には正直、誠実であれ””進取の気性をもて””自分の生活がどうにか維持していけるようになったら、社会奉仕をせよ”と言っておりました。私は父の教示の「正直、誠実」は実行していますが、あとはできていません。
長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
次回からは「母方編」を書きます。
 
 
 
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