待ち時間にXをふわっとみていたら
歌人界隈の論争に出くわした。
最初はふたりだったのに、
やがて三人に、そして四人五人と増えてゆき、
元々何がきっかけだったのか、と
もう一度根元まで辿るのだった。
頭の悪いどうしようもないわたしからしてみれば、
その案件に立ち止まり、考えを巡らせる人々に敬服するし、
どの意見を鑑みても、賛成賛成と心が傾くことに
情けないやらせつないやらで、
本質とはかけ離れたところで
ひとり勝手に落ち込んでいるのである。
すべての意見がかっこいいし理知的で優れている。
修正のひとつもいらないような実直なやりとりは、
ちいさな卵の中であれとても激しい。
SNSという殻の中であることで
あらゆる本質が守られていることが、
人々を素直にさせるのだとしたら、
この世界もこれはこれで
案外悪くない。
悲しいかなその案件を前に
わたしの表現力が足りないせいで、
立ちすくむだけなのだが、
例えば。
訪れたビストロで、髪が入っていた料理が運ばれてきて、
なにも言わない代わりにもう二度と行かないより、
ひと言真実や意見を申し上げるほうが、
ビストロにとってもわたしにとっても
お互いのためになるのではないかと思うのだ。
激しいやりとりですら、無関心より随分いい。
だからなのかな。
どのひとの考え方も熱量も、
取り扱う案件は別として、
耳を塞ぎたくなるとは全く思わない。
あなたはどう思うのだ、と聞かれれば
語彙のないわたしなので
ひどく幼稚な表現になってしまうが、
まず自由がいい、ということだ。
では何を言ってもいいのかと問われれば、
いやいやそこまでいうつもりはないのだが、
『何』を決められた人生って
その先に死しかない道程じゃないかと思うのです。