石橋が口にした心配は、出席者の誰もが感じていることであった。党員一同は、サピエンス経済がこの国を救う救世主になる可能性を信じてはいた。しかし、その熱い思いに水を差したのは、石橋と同じ心配事だ。経済政策の革命的な変革は、既存のフレームワークを壊して更地にして作り直すスクラップ・アンド・ビルドみたいなものだ。以前、携帯電話システムの更新時に不具合が生じて、通信障害が長時間におよび、利用者に耐えがたいほどの不便を与えたことがあったが、行政府にそのような空白は許されない。
 『怖さを感じる』と言ったのは、支持率を気にしてのことではなく、国民生活を心底から心配し、首相としての責任感から出た言葉であることは、参加者の誰もがわかっていた。皆が責任政党の一員として共有している気持ちだからだ。『怖さを感じる』という言葉は皆に共鳴し、場の空気を凍り付かせたのだ。

 畠中の話は、凍り付いた空気を一変させる呪文のような言葉から始まった。

 「大丈夫です、心配いりません」

 この一言で、石橋が救われたような気になったのは、畠中に寄せる信頼感がそれだけ確かなものになっていたからだろう。石橋の目には、皆も安どの表情を浮かべているように映った。
 畠中は続けた。

 「“サピエンス経済”の肝になるのは、言うまでもなく、消費額を捕捉することではじめて可能となる、税制の抜本改革です。個人を特定できないプライバシーコードをベースにした制度ですので、従来の税制と区別するために仮名化税制と呼ぶことにします。仮名化税制は、税制のデジタル・トランスフォーメンションでもあり、プライバシーコードごとに収入と支出を自動集計できますから、ほとんど人手がかかりません。ですから、従来の税制との併存にも対応できます」

 中川幹事長が大きくうなずきながら、畠中が言わんとしたことを先取りした。

 「制度を一気に変えるのではなく、両制度を併存させて、徐々に切り替えればいいわけですね」

 「そうです。両制度を併存させておけば、いつでも後戻りできるし、徐々に切り替えれば、不都合なところを修正しながら、移行できるので、切り替えに伴うトラブルを最小限に抑えることもできます」

 川本副党首が珍しく口を開いた。石橋に党首の座を譲って、意識的に後ろに引いている感があったが、議論が白熱してくると黙っていられなくなったのだろう。

 「両方の税制を併存させるのであれば、どちらの税制で納税するか選択してもいいわけだ」

 「個人事業の納税に青色申告と白色申告があるように、そういう選択ができるのは確かにいいですね」と、中川が乗ってきた。

 川本は、我が意を得たりとばかり、堰を切ったように話を続けた。

 「今の税制のままだと、財政健全化のためには消費税を20%程度にしなければならないと、多くの識者が言っています。“サピエンス経済”では、ほとんどの人の税負担を軽減しながら税収を維持できます」

 新人の若手議員から、素朴な質問が飛んできた。

 「ほとんどの人が減税になるのに税収が減らないというのは、好景気になって法人税が増収することを当てにしているからではないのですか」

 「いえ、法人税は考慮しない個人税だけでの話です」

 今度は、若くはない別の新人議員が質問した。豊富な人生経験を積んできたことをうかがわせる面構えだ。

 「ということは、今まで所得を捕捉しきれていなかったというか、はっきり言えば、所得をごまかしていた人間が多かった、ということですね」

 「それを裏付ける確かな情報があるわけではありませんから、『サピエンス経済』にはそこまではっきりとは書いていませんが、明らかになっている情報から税収を計算すると、ご指摘の矛盾が出ますので、所得のごまかしがかなりあるからだと解釈するのが妥当でしょうね」

 「だとすると、新たな疑問が湧いてきます」と、同じ議員が続けた。

 「仮名化税制では、匿名性を担保した形で、プライバシーコードごとに支出額を捕捉して、消費税を後から所得税と同じように直接税として徴収するとありますが、はたして消費額を確実に捕捉できるのだろうか。それができなければ、今の税制と本質的に何も変わらないのではないかと、ずいぶん悩み、考えました」

 「で、どういう結論になりました?」と、川本は先を促した。

 「『サピエンス経済』を繰り返し読むうちに、断片的なピースが繋がって、パズルの絵が浮かんできました。プライバシーコードごとの収入と支出を捕捉すれば、その差額である貯蓄の増分も捕捉できるのは確かですが、匿名にしたからと言って、それだけで収入と支出を確実に捕捉できるわけないだろう、と当初は疑問に思いました。でも、その疑問はすぐに解消しました。消費税の方が貯蓄税よりも低税率にすることを提案しているのは、消費促進策だろうと当初は思っていましたが、それだけではないんですね。消費額を少なく見せて消費税を減らそうとすれば、それ以上に貯蓄税が増えますから節税になりません。すると、誰もが必ず領収書を受け取るはずです。結果的に、確定申告のときに、これらの領収書情報すべてが税務署に集まりますから、領収書の発行事業者ごとに名寄せをすれば、事業者ごとの売上高が自動的に算出されます。過小申告をしてもすぐにバレますから、皆が正直に申告するようになるはずです。そういう理解でよろしいでしょうか」

 「はい。完璧です」

 川本は、満足げに笑みを浮かべている。前の席に座っている党役員たちは、配布されている座席表に視線を落とし、質問者が浅田という新人議員であることを確認した。出席者の皆が、浅田に対して一目を置くようになった。浅田は、将来、この国を代表する政治家になるのだが、この日が政治家浅田の船出の日だったようだ。

 皆の疑問が解消し、納得したところで、議長の政調会長が予定していた議題に移った。

 「それでは、本日予定していた、税についての議論を始めたいと思います」

 いよいよ、最重要政策である税制の議論が始まるが、これまでの政権の税制調査会では、限られた税収をどう配分するかというのが議論の中心で、何かの予算を増やすためにどこを削るか、といった議論が中心だった。税収という既得権の分捕り合戦のようなものだ。これから始まろうとしている議論は、それとはまったく異質のものだ。その議論を通じて、政治屋根性が昇華して政治家魂が醸成されているような感覚を抱いた議員が多かったようだ。