プライバシーカード法案は、是非自分の口から趣旨説明をしたいという強い意向で、本会議場の演壇に立ったのは石橋首相だった。熱の入った説明を終えると、与党席から大きな拍手が湧いた。
 最初の質問は、保守党も党首を立ててきた。質問内容の事前通告はしないことにしたので、党首討論会みたいなものだ。熱い質疑応答が予感される。

 「党首自らの熱のこもったご説明に、思い入れの強さをひしひしと感じました。さりながら、思い入れの強さからは、必要性の強さが伝わってきません。すでに個人ナンバーカードを前の保守党政権が導入し、大変な苦労を重ねて着実に普及させてきました。この上さらに同じようなプライバシーカードを普及させることは行政の二重化で、無駄以外の何物でもないのではないでしょうか」

 「プライバシーカードは、個人ナンバーカードとはまったく別物です。個人ナンバーカードの法案では、『行政手続における、特定の個人を識別するための番号の利用等』と書かれていますが、プライバシーカードの法案は、『行政手続における、個人を特定できない仮名化番号の利用等』としておりまして、まったく別物です」

 「仮名化されているかどうかだけの差でしょう。本質的には大差ないのではないですか。」

 「これを大差ないと言っている限り、プライバシーカードの発想は絶対にできません。同じようなカードという認識がそもそも大間違いです。個人ナンバーカードは、ポイント還元のようなメリットをつけても普及が進んでいないではないですか。そんなカードを無理やり普及させるために2兆円近い予算を使ったことは看過できません」

 「まだ用途が広がっていないから普及が進まない。普及が進まないから用途が広がらない。このジレンマを乗り越えるために、まず普及させなければならず、2兆円はそのために必要な予算です」

 「それだけのインセンティブをつけても普及しないということは、国民が必要性をあまり感じていないからだと思います。用途が広がればもっと普及するとお考えのようですが、個人ナンバーカードの表面には、住所、氏名、個人ナンバー、さらにご丁寧に顔写真まで印刷され、個人情報が丸裸です。ポイントを稼ぎたいから個人ナンバーカードを作って、多目的に使えるように設定したけど、無くした時のことが心配で持ち歩きたくない、という人が非常に多いことは把握しています。我々は、国民一人ひとりの情報を、国民の生活レベルの向上や将来不安の解消のために最大限生かす行政を幅広く行いたいのですが、そのためにはプライバシーの保護が絶対必要条件だと考えたのです」

 「じゃあ、個人ナンバーカードにはできないけれど、プライバシーカードはプライバシーが保護されているからできるというような政策があるというのでしょうか。でしたらその例を示してみていただけませんか」

 「多くの政策が想定されますが、その中で一番特徴が分かりやすい事例を述べさせていただきます。地方自治ですでにプライバシーカードを用いて実施している行政サービスですが、それを全国規模に拡大して、内容をさらに充実することを考えています。それは、プライバシーカードごとの医療情報データベースを全国規模に拡大して、プライバシーカードを持つ患者は、全国どこの医療機関に行ってもこのデータベースにアクセスして診療に活用できるようにするものです」

 「そのために全国民にプライバシーカードを普及させるには、膨大な予算が必要ではないですか。それならば、個人ナンバーカードをそのような目的に使えば済む話ではないですか」

 「私の説明がまずかったのか、十分な理解を頂けなかったようですね。個人の医療情報は、優れて機微に触れる個人情報です。先ほど、プライバシーの保護が絶対必要条件と申し上げたのは、そういうことです。個人情報が丸裸のカードが多目的に使えるようになると、なくした時のことが心配で持ち歩きたくない、という人が非常に多いことは先ほども申し上げた通りです。個人ナンバーカードをこの目的に使うのは無理なのです。それに、プライバシーカードはすでに地方自治体で普及させていますが、ポイント還元などのインセンティブは必要なく、必要なのは350円のカード代金だけです。全国民に配布しても500億円程度の予算で済みます」

 勢い込んで、質問に立った保守党党首も、思わぬ反撃を食らって、劣勢はだれの目にも明らかだった。そして、プライバシーカードは、国の事業に格上げされることがあっさり可決された。


 それから2年。ポイント還元のようなことをしなくても、ほとんどの国民にプライバシーカードは行き渡った。それによってもたらされた成果を否定するものは誰一人いない。
 個人の医療情報の所有者は患者自身という概念がコンセンサスとして定着した。医療データの所有者を仮名化して構築したデータベースは、行政が構築した世界に誇れる医療ビッグデータだ。プライバシーが完全に保護されているので、第3者が医療情報を研究目的で利用できるよう解放されており、医学に多大な貢献をしたことは特筆に値する。

 例えば、ワクチンの副反応が社会問題化したとき、ある研究者が、ワクチンの副反応が疑われる症状が本当に副反応かどうかを調べるために、この医療ビッグデータを活用した。まず行ったことは、着目する症状を発症し、かつ、それ以前にワクチンを接種した人の抽出。統計的に十分なサンプル数だ。ワクチンを接種した日を起点として、発症までの日数を横軸に、発症したサンプル数を縦軸にしてグラフにするだけで十分だった。もし、ワクチン接種との因果関係がなければ発症時期はワクチン接種に関係なく均等に分布してフラットなグラフになり、因果関係があれば何日目かに分布の山ができるはずだ。こうして、いくつかのワクチンでは副反応が確認され、特に、発症数の山ができるタイミングで死亡数が無視できないワクチンは、即座に認可が取り消された。

 もう一つの事例は、首相補佐官として畠中が石橋首相に進言したことから始まった。新薬承認のための治験に関するものだ。治験の最終段階である第3相では、検査対象の新薬か偽薬か分からないようにして、多数の被験者の半分には新薬を残り半分には偽薬を投薬し、新薬の効果を偽薬と比較する。
 偽薬との比較試験が本当に必要なのだろうか、と畠中は以前から疑問を感じていた。新薬に期待される効能が、苦痛を和らげる程度ならまだしも、生死にかかわるようなケースで偽薬を試験的に投与されたのではたまったものではない。人体実験みたいなもので、非人道的だとさえ思っていた。
 そこで、畠中は、第3相の治験に入る前に新薬を仮承認し、医師は診療時に仮承認の新薬を通常の薬と同等に処方できるようにすべきだと進言したのだ。畠中がその理由を丁寧に説明すると、石橋はすぐに理解して動いた。薬事法は短期間に改正までこぎ着けた。特筆すべきは、保健省からの関連する省令公布も迅速だったことだ。官僚に対する国民による人事評価制度の効果だろうか。

 畠中が進言した第3相の治験では、保険が適用され、患者は他の薬と同様に薬代を負担する。偽薬を用いる代わりに、それまでの治療成績を医療ビッグデータから抽出し、それと新薬の治療成績を比較し、新薬を正式に承認するかどうかを判定した。
 これによって、新薬が実質的に治療に供されるまでの時間は驚くほど短縮され、製薬会社にとっては、治験コストの多くを占める第3相のコストが不要になった。新薬の開発コストは激減することとなった。結果的にそれは薬価を下げることに貢献した。
 国民は、早く、安く、新薬の恩恵にあずかることができるようになった。一方、製薬会社は、膨大な費用のために断念した新薬の開発を再開するケースも少なくなかった。開発費に占める治験コストは無視できない比率だったからだ。

 医療ビッグデータを活用した、ワクチンの副反応の判定や新薬の治験などの事例が度々報道された。その効果は国民に分かりやすく、プライバシーカードがもたらす恩恵は再認識された。同時に、個人情報がしっかり印刷されている個人ナンバーカードを、同じ目的に使わないでほしいと国民は願った。医療ビッグデータに対する安心感が一気にぐらつくからだ。

 こうした事例は、政権が国民から信頼を得るために一役買ったようだ。しかし、これはまだ序の口だ。国民の政権への信頼が高まったところで、いよいよ、プライバシーカードを活用した本丸の国家事業に邁進することを石橋と畠中は決意する。それは、道州制導入以上に、国民に驚天動地の衝撃を与えることになる。