ココハグ-帯広 様々な症状や障がいを持つ子どもへのベビーマッサージ・小児タッチケア教室、きょうだい・マタニティ&ママのタッチケア -2ページ目

ココハグ-帯広 様々な症状や障がいを持つ子どもへのベビーマッサージ・小児タッチケア教室、きょうだい・マタニティ&ママのタッチケア

帯広市・様々な症状や障がいを持つ子どもへの「ベビーマッサージ・小児タッチケア」教室を行っているココハグ(coco-hug)です。そのきょうだいへの「きょうだいへのタッチケア」、妊婦さんやママの心と体をケアする「マタニティ&ママへのタッチケア」教室も行っています。

『嫌いなんだよね』
『あんたなんて幸せになれるわけがないでしょう』
『可愛げがない』『いいよね、お父さんが味方で』

繰り返し聞かされていた母からの言葉に
私は母に愛されていないんじゃないかと思うようになりました。
そして思春期に入り自分の体が変わり始めた頃、
母に羽交い絞めにされ服を脱がされ、裸を見て笑われたことで、
母親に対する感情のシャッターを完全に閉ざしました。

一方、母からの愛を一身に受けていたはずの弟は、
小学校高学年の頃から親と衝突するようになり
家庭内暴力へと発展。
父も母も自殺未遂を起こし、
私は家族崩壊の状態の中で10代を過ごしました。

子どもの頃から家でも学校でも親戚の中でも
「しっかり者の頼りになるお姉ちゃん」だった私は
ずっと父と母の橋渡し役で、
両親と弟の間でも仲裁役になっていました。

自分たちの気持ちを受け止めてほしい一心で
何度も行った親との話し合い。
けれどいつも、返ってくるのは

『いまさら、どうしろっていうの』
『必死で子育てしてきたのに...』
『今まで育ててやった恩も忘れて!』という言葉ばかり。

どうしてこの人たちは分かってくれないんだろう...。
今 ふり返ってみると弟の感情に自分の感情を被せ、
親を責めることしかできていなかったのですが
傷ついた感情を親にぶつけ、
それがそのまま返ってきて余計に傷つく。
その繰り返しの中で「この人たちと同じ血が流れているのが嫌」
と、自分の中に流れる血液さえも嫌悪する時期もありました。

同じ家族に生まれたのに、どうしてこんなにも傷つけ合い、
憎しみ合わなければいけないんだろう。

わが家のような家族を増やしてはいけない。
私は幸せな家庭を築きたい。

それが、私に課せられた使命だと感じていました。

・・・・・

20歳になってすぐ、予期せぬ妊娠をし、
一度目の結婚と出産を経験しました。
早すぎる妊娠・結婚・出産の裏には、
母に与えてほしかった温もりを
知らず知らずのうちに異性に求めていたという
心理があったように思います。

それでも小さい頃からなりたかった「お母さん」になれたことは
とても嬉しいことでした。
と、同時に「いいお母さんでなければ」という
プレッシャーとの戦いの始まりでもありました。

娘のことは、もちろん無条件で大切に想っているのだけれど、
それ以上に「きちんと子育てしなきゃ」
「良いとされていることはしなきゃいけない」という
思いに縛られ、子育てを楽しむ、という
考えも余裕もありませんでした。

自分が不安定だったこともあり、一年ちょっとで離婚に至り
長女を連れて親元へと戻った私。
再び、母とぶつかり合う日々の始まりでした。

今まで散々この人に苦しめられてきた。
少しくらい私のサポートをするのは当然のこと。
そう思い、口にしたこともありました。

母の勧めで子育ての勉強会に参加する機会も多かったのですが
どうしても「母親」ではなく
娘としての立場でしか聞けない自分がいて
「どうしてお母さんは私には与えてくれなかったんだろう」と
過去の傷に痛みを感じてばかり。

それを母に伝えては余計に傷つくという
10代の頃と同じ悪循環の中での子育てでした。

当時、自己啓発本が少しずつ私の中に変化を起こし始め、
「人間には、幸せな未来を明確にイメージすることで
 その通りの現実を引き寄せる力がある」
という内容に衝撃を受け、あれこれ試していました。

けれどそんな時に必ず思い出すのが
『あんたなんて幸せになれるわけない』という母の言葉。
「私だって幸せになれる!」そう打ち消してはみるものの
心の中に見えないブレーキがあるようでした。

一方で、母親が子どもの中にある幸せスイッチをONにできれば
その子に幸せな未来をプレゼントできるに違いない。
そんな方法はないだろうかと模索し始めたのも、この頃です。

・・・・・

30歳の時、今の主人と結婚・妊娠し、翌年10年ぶりに出産。
次女を授かりました。
見えない心のブレーキとの葛藤は相変わらずでしたが
それでも少しずつ自分の幸せも考えられるようになってきた私。
次女の子育ては「とにかく楽しみたい」という
気持ちでいっぱいでした。

親子で一緒に楽しめることはないだろうか...と探していた時に
たまたま見つけたのが地元情報誌の中の
ベビーマッサージの記事。
出産後すぐに体験しに行き、自宅でも続けていましたが
寝返り、ハイハイをするようになり徐々に
ベビーマッサージする時間が減っていき
わが家のベビーマッサージの時期は
終わったんだな、と思っていました。

次女が1歳を過ぎた頃、友だちの家に
(後に、この子のママと一緒に活動することになります)
遊びに行った長女が「これ、ママに渡してって」と言って
差し出した一枚のチラシ。
これが私の師匠である直子さんの
ベビマパーティーのチラシでした。
「もうベビマの時期は終わったんだけどな」と思いつつ
札幌でカリスマインストラクターと呼ばれています!
の一文に惹かれ、参加を決めました。

そして、当日。
直子さんからベビーマッサージは年齢関係なくできること、
子どもたちの心の深い部分に愛を届け、
それが無限の可能性を開花させることに繋がる、との話を聞き
「私がずっと探していたのはコレだ!!」と、その場で
直子さんの下でインストラクターになることを決めました。

インストラクター養成講座の内容は、
手技や理論はもちろんでしたが
触れることを通して、お子さんとママを包み込むことのできる
愛の伝道師を目指して自分を見つめることが一番の目的。

講座を重ねる度に、愛されてこなかったと思っている私が
ほかの人に愛を伝えていくことができるのだろうか?
と、心を揺さぶられるのを感じていました。

なんとなく、母にタッチケアをしようと思いつき、
「今、自分が触れてあげたいと思う人にタッチケアをしてくる
という宿題がある」と、母にお願いして、させてもらいました。
(もちろん、そのような宿題はありません)

ネガティブな感情が爆発して、泣いて泣いて
途中でベビマどころじゃなくなるのではないか。
始める前はそんな不安でいっぱいでしたが
いざやってみると終始穏やかな気持ちに溢れ、

「お母さんのひざに座ってTVを観ていたな」とか
「子どもの頃、あんなレコードかけてくれていたな」とか

母が私にしてくれていたことがどんどん蘇ってきて、
今まで抱いていたわだかまりの感情が、
どんどん小さくなるのを感じていました。

タッチケア終了後。

私は、母に『あんたなんて幸せになれるわけない』と
言われていたことがずっと引っかかっていた、と
打ち明けました。
すると母が『あんたの幸せが、わたしの幸せだよ』と
答えてくれたのです。
私と母の関係が大きく変わり、
タッチケアの効果を実感した出来事です。

・・・・・

インストラクターになってすぐ、
10年以上も連絡を取っていなかった弟からわたしに
「もう一度、両親との間に入ってほしい」と電話がありました。
以前、両親との仲裁役になっていた時に、親戚からも
わたしが弟の側について親と対立していることを責められ、
毎日夜中まで続く弟からの連絡にも追い詰められ、
家族から逃げたわたし。

弟を裏切ってしまった、と自分を責める気持ちを抱えていたので
この電話は、もう一度チャンスをもらえたようでもあり、
自分に、家族の仲を取り持つ準備ができたという合図なのかな、
とも感じる、不思議なタイミングでした。

その後、相談に乗っていただいた方との面談で
弟に発達障害の疑いがあることを知り
入学前の検診で児童相談所に行くことを勧められていたけれど
見た目にどこも異常がないためそのままにしてしまったこと、
入学後、短距離走はできるのにリレーのルールが
どうしても理解できなかったこと、
担任の代替の先生に「情緒学級に行った方がよい」と言われ、
それを知った母が怒って、校長先生とその代替教師に
謝罪をさせたことなど、子どもの頃には知らなかった話を、
父から聞くことになりました。

また、障害があっても子どもの頃からその年齢に応じた対応を
していくことで、社会に適応できるように育つこと、
そのためにはできるだけ早いうちに障害を受け入れ、
向き合うことが大切なのだということも知りました。

母が弟の障害を認めることができず、
ほかの子と同じことを求めやっきになっていたこと。
それができない弟にとってはつらいことで、
自分を認めてもらえないと感じていたこと。
弟に「いいよ」と言えなかった母は、
自分自身にも「いいよ」と思えていなかったこと。

弟が生まれた時、父に「なんだ、男か...」と言われた母は、
その一言がずっと引っかかって、父に認めてもらうためにも
弟をしっかり育てなければ、と思ってしまっていたこと。

わが家が抱えていたものが、私の中で少しずつ つながり、
子どもの個性をそのまま認めること、
そのためには 母親自身が自分を認めることの
大切さを実感しました。

・・・・・

長女が中学校に進学して、2週間目の夜。
目に涙をいっぱい溜めて「部活をやめたい」と訴えてきました。
学生時代、部活を通して多くの仲間と出会い、
たくさんのことを学び、部活・命 でやってきた私は、
彼女に「そっか。いいよ」と
言ってあげることができませんでした。

もしこの時に「いいよ」と言ってあげることができていたなら、
長女を追い詰めることはなかったのかもしれない。
ずいぶんと後になって、この時の出来事が頭をよぎりました。

なぜ「いいよ」と言えなかったんだろう。
この時の私もまた、自分にOKが出せなかったのです。

G.W.を迎えた頃から長女が学校に行けない日が増えてきました。
行けなくなったばかりの頃は叱咤激励したりぶつかり合ったり。
学校に行かせることにばかり気を取られ、
行けない日は本人以上に私が落ち込むという日々でした。

ある日、いつものように落ち込んでいた私がふと気づくと、
長女は家を出ていき、いませんでした。

泣きながら長女を探す中、
学校になんて行けなくていいよ、
生きていてくれたらそれでいい。
そんな気持ちでいっぱいになりました。

この時、どんなことがあっても
生まれてきてくれたことへの感謝は
絶対に、忘れてはいけないということに気づかされたました。

・・・・・

同年6月、次女と梅干づくりのイベントに参加しました。
母と同世代の先生+その方の師匠と
4世代が集まってのイベント。
作り方だけではなく、食材への感謝や
食べる人への思いやりを込めて作るということを教わりました。

命と一緒に、愛情や感謝、生活の知恵など、
たくさんのものがつながって
今、自分が生かされているということを
強く感じたイベントでした。

そして、私が命と一緒につないでいきたいものは
「生まれてきてくれてありがとう」の気持ちと
「生んでくれてありがとう」の気持ちだと、心の奥から
シュワシュワと炭酸が溢れ出るような感覚を、味わったのです。

・・・・・

翌夏、仕事のストレスもあり、突然の体調不良で
半月ほど、寝ているだけの日々を過ごしました。

毎朝、私を心配し、身を切られるような表情で出かけていく
子どもたちに気づいてはいるものの
心も体も言うことをきかない。
そんな中で次々に浮かんできたのは、
自分が子どもの頃に何を感じ、それが現在の私に
どんな風に影響しているのかという振り返りでした。

・つらい大変な状況に身を投じ、そこに耐えることを
 美徳としていたこと
・お金に対してネガティブな感情を抱いていたこと
・自分が何とかしなくちゃという思い込み
・まわりからの評価を求めキャパ以上のことをやろうとしたり
 相手の荷物を持とうとしてしまうこと
・母に『これからは資格の時代』と言い聞かされていた呪縛から
「資格がないと...」といつも不安に感じていたこと

次々に見えてきた自分の姿。
特に母からの言葉の呪縛に気づいた時の開放感は大きく
ようやく自分の人生を歩く権利を手に入れたような感じでした。

この体験から、子どもは無意識のうちにお母さんの人生を
生きようとする
(それがお母さんを幸せにすることだと信じている)こと、
子どもの幸せを願うならば、
まず自分が幸せでいなければいけないこと、
ママが自分の人生を生き始めた時に、
子どもの「ママを幸せにしたい」というミッションが完了し、
子ども自身の人生を生き始めることができるのだということを、

心で理解しました。

私が元気になることで子どもたちも心底 嬉しそうな顔をして
家の中の空気が明るくなり、ママが元気でいることが
家族や子どもたちに
どれほどプラスの影響を与えるのか...ということも。

・・・・・

この後、大きな出来事が2つ、ありました。

1つは、次女が突然、

「ママ、泣いてもいい?
 ママといたら何だか泣きたい気持ちになるの」
と、何日も私に言い、ある時、大きな声で泣き始めたこと。

ひとしきり泣いた後は「泣いたらすっきりしたわ」と言ったきり
一切、泣きたいと言わなくなったことです。

私が泣きたい気持ちにずっとフタをしていて、
泣きたくても泣けないでいることに気づかされました。
そして、泣きたい時に思いきり泣けることが
どんなに尊いことなのかも、次女から教わりました。

もう1つは、実感に遊びに行ったときのこと。
母が、私と娘たちとのやりとりを見ていて、

「あんたは上手に子育てしているね。
私の時はベビーマッサージみたいなものもなかったし、
子育てについて教えてくれる人もいなくて
ずいぶんと間違ったことをしてきたわ。
いやな想いをいっぱいさせてきたよね。ごめんね。許してね」

と、謝ってきたこと。

自分のことをふり返り、自分を生きるということがわかったら
今までずっと母から欲しかった言葉をもらえた...。
驚きで、いっぱいでした。

あなたは、あなたの道を行きなさい。

巣立ちを許されたような感じで、
やっと自分の選んだ人生を自分で歩いていける
嬉しさもありましたが、自分ですべての責任を
とらなければいけない大きな恐怖感も感じました。

目の前に新しい道への扉があるのに、
扉の前で躊躇している感覚。

この時に、今までいろんなものを母のせいにしながら
私は守ってもらい、
大切にしてもらっていたことに気づきました。

扉を開けられない、足踏み状態はその後も続き、
頭でわかっているのに行動できないジレンマを抱える日々。
そんな自分と向き合う覚悟をくれたのは、
娘たちの原因不明の体調不良でした。

・・・・・


母との関係はクリアになっていたものの、心のどこかで
「愛が足りない」と感じていた私。
娘たちと一緒に過ごす中で時々
「いいなぁ。私もこんな風にお母さんと接していたら、
 もっと生きやすかったかも...」と思うこともありました。

母との関係を見つめ直す講座の中で、母親からの愛を求めるより
母に向けた愛情が届いていないことに傷つき、
母を幸せにできない自分に対して許せない気持ちを
ずっと抱えていたことに、気づきました。

それを通して、自分の溢れんばかりの愛で
母を想っていたのだとわかり
自分の中にある大きな大きな愛を見つけることができました。
それがあって、初めてすべての人の中にある愛を
信じる強い気持ちを持てました。

・・・・・

ベビーマッサージと出合ってからの3年間は、
自分のこれまでを見直し
これからを生きるために必要な時間だったと感じています。

過去のことに捕らわれていた頃の自分は、毎日、
前向きな気持ちで過ごし、Happyなことしか起こらない...
そんな未来を夢見ていたし、
子どもたちにもそんな未来をプレゼントしたい。
バーストラウマやインナーチャイルドのない世の中を
作りたいと考えていました。

けれど、今は違います。

人それぞれ、さまざまなバーストラウマやインナーチャイルド、
人生の中で逆境に遭遇することがあったとしても、
それがその人の使命のために必要な出来事であり、
つらいこと以上に、それを乗り越えて歩き続ける力に溢れている
存在なのだと、自分の持つ力も、他人が持つ力も信じられるようになりました。

大人たちが自分を愛し、自分を生きる姿を見て、
子どもたちも自分を愛し、自分の道を歩いていく
強さを育んでいく。
それこそが次の世代にプラスのエネルギーをつないでいくのだと
私は考えています。

私の願いは、どんな状況や環境でも
「家族でよかった」「親子でよかった」
「自分に生まれてよかった」
と、感じる人が1人でも増えること。

そのために家族や親子間で、日常から少し離れ、
シンプルに相手を想う気持ちを伝え合い、
個性を認められる時間を提供すること、
その人の中にある愛と歩き続ける力に触れること。

その輪が少しずつ広がって、
みんな違ってみんないい、けれど1人じゃない
と、感じられる世界に、つなげていきたいと願っています。